長谷川良氏の7/29付けアゴラ記事「『イエスは神である』としたニカイア公会議から1700年」へのコメントです。
すなわち、聖書には「イエスは神」という聖句と「イエスは神ではない」という聖句が記述されているわけだ。この一見矛盾する聖句を如何に合理的に解明するか、という課題はキリスト者に依然残されているのだ。
何が真実であって何が真実でないかという問題は、少なくとも1700年以上にわたって人類が議論してきた問題である、ということですね。この問題に対する回答は、まずはデカルトの「エゴ・コギト・エルゴ・スム」によって与えられ、その後発展した論理学の原理「意味論的前提」と「語用論的前提」によって「エッセンシャル・エゴ(根源的自我)=先験的自我、超越論的自我」という形で定式化されました。つまり、すべての論理的議論の前提として、自我の存在を認めなくてはいけないということですね。(解説)
この考えは、カントにより発展します。カントは、真実(サブジェクト)を外的事実の上において、ひとの認識する世界をその人間意識への投射イメージ(オブジェクト)とするギリシャ時代からの伝統を180°反転し、ひとの認識した世界観を真実(サブジェクト)とし、外的世界は人間精神が己の認識を外的世界と考えた位置に投射したイメージ(オブジェクト)と考え、この反転を「コペルニクス的転回」と呼んだのですね。
その後、現象学者によってこの原理は定式化され、「客観」は「共有された主観(相互主観、間主観)」の上に再定義されました。現象学の祖ともいわれるフッサールは、その著「デカルト的省察」の最後の部分に次のように書きます。
実証科学は、世界を喪失している学問である。普遍的な自己省察によって世界を再び獲得するためには、われわれはまず最初に、判断中止によって世界を放棄せねばならない。アウグスティヌスは次のように語っている。「外にゆこうとしないで、汝自身のうちに帰れ。真理は人の心のうちに宿っている」と。
アウグスティヌスがそんなことを語っておられたとは驚きです。なんと彼は、西暦354年に生まれた方。イエスが神かどうかを議論しているころに生まれた方が、真実がどこにあるかを、ほとんど今日の人類がたどり着いたとほぼ同じように認識しておられたのですね。これはまあ、遊び人、恐るべし、ということかもしれないのですが。
shin