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共産主義の上位概念:集産主義

長谷川良氏の10/1付けアゴラ記事「『文化共産主義』って何なの?」へのコメントです。


共産主義はマルクス、エンゲルスらの「科学的社会主義」とその発展形だと思いますが、これに似た考え方と言いますか、その外側にある集合が「コレクティビズム(集団主義または集産主義)」であると理解しております。

コレクティビズムに含まれる考え方には、共産主義以外にも、ナチズム、ファシズム、アジア的稲作村落やイスラエルのキブツなどの農業共同体、キリスト教から仏教までをも含む多くの宗教的教団、リナックスやウィキペディアなどのフリーソフトを支える集団など、極めて大きな広がりをもつ考え方があります。

これらの考え方は、集団の利益を第一に考えますから、個人が抑圧されるケースが多々ある。だけど、多くの人が同じ方向に力を寄せ合うため、全体として大きな力が発揮できるという利点もあるのですね。

結局のところ、どんなやり方にも長短があるわけで、逆の考え方との調和を図っていく必要がある。逆の考え方は、分類でいえば「個人主義」であり「自由主義」であり、結局のところ、個々人の自由を尊重するという考え方です。個人の自由と集団の利益の調和は、統制を強め過ぎないことで実現されるでしょう。教団なら異端を火あぶりにするのではなく追放程度にとどめることですね。ネット上の場であれば炎上を防止するよう、各人が気を配ることで実現できそうです。

最初に掲げた数々のコレクティビズム的集団の中で、ネット上で作業を進めているフリーソフトサポート集団は比較的うまくいっている例と言えるでしょう。こうした場では、感性ではなく知性に訴えるメッセージが交換されている。知性には自由の暴走を防ぐ効果があり、これが集団における個々人の自由を確保するカギになる、ということでしょう。


(10/2:追記しました)

ちょっと誤解があるようですので、追記します。集産主義(コレクティビズム)は、共産主義ではなく、これを含む上位概念だということ。鳥類の中に、ハトやカラスが含まれるのですが、この時「鳥類」に対応するのが「集産主義」、「カラス」に対応するのが「共産主義」なのですね。

集産主義は、必ずしも悪いものではなく、これに属する個々人の自由が尊重されるなら、それはオープンソースのコミュニティのように、成功したやり方ともなりえる。まあ、共産主義にしたところで、チトー率いるユーゴスラビア共産党は冷戦の時代に東西いずれにも属さない第三世界の旗頭を務めておりましたし、チェコ共産党のドゥプチェク書記長は、自由化政策「プラハの春」を展開したこともありました。

問題は我が国が集産主義的傾向が強く、個人の自由も抑圧する傾向にあるということ。このような考え方は発展を阻害してしまいます。青木保氏の「『日本文化論』の変容」は、戦後日本文化論を解説する好著なのですが、川島武宣氏のイエ的社会批判を次のように紹介されています。(参考

川島がここでいう「家族的原理」とは、次の四点に求められる。すなわち、

1.「権威」による支配と、権威への無条件的服従

2.個人的行動の欠如とそれに由来するところの個人的責任感の欠如

3.一切の自主的な批判・反省を許さぬという社会的規範。「ことあげ」することを禁ずる社会規範

4.親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立。「セクショナリズム」

青木氏は川島氏の主張を「過激」というのですが、私には今日まで続く日本社会の特徴をよく表しているように思われました。そしてこのような傾向こそ、我が国が改めなければいけない部分なのですね。そのカギは、個々の個人の自由を尊重すること、これに尽きます。


以下はブログ限定で、ちょっと私の思うところを書いておきます。(10/2)

まず、長谷川氏が毛嫌いする『文化共産主義』は『文化的マルクス主義』と同じ意味だと思うのですが、これは陰謀論であるとの見方もある、かなり極端な見方であるように思われます。Wikipediaの『文化的マルクス主義陰謀論』によれば、LGBT容認などの行き過ぎたリベラルを「文化的マルクス主義」と呼び、その思想の社会への浸透をある種の「陰謀」であると主張する考え方なのですね。

文化的マルクス主義者を自認する論者はおらず、文化的マルクス主義という学術分野は存在しない。この概念は、現代の進歩主義運動諸派や、アイデンティティ政治ポリティカル・コレクトネスがあるのは、フランクフルト学派に由来するという見方を提示し、伝統保守主義のキリスト教的価値観や伝統的価値観を崩して文化的にリベラルな1960年代の価値観で置き換えようとする文化戦争を計画的に進め、それを通じて西洋社会を意図的に転覆しようという陰謀が現に進行中であるという主張として、その批判者によって形成されている

これは、参政党も嫌うもので、この8月には神谷宗幣名義で「共産主義及び文化的マルクス主義の浸透と国家制度への影響に関する質問主意書」などという文書も発表されています。我が国も右傾化の傾向があり、参政党が支持を拡大していることから、このような考え方は、今後より一般的になる可能性も高いように思われます。

とはいえ、陰謀論はいただけません。まあ、それが事実なら重大な問題かもしれませんけど、一般的に陰謀論は被害妄想である場合が多く、気安く乗ることは賛成できないのですね。

で、Wikipediaが引いておりますSchiller Instituteの“New Dark Age: Frankfurt School and 'Political Correctness'”を一読いたしますと、この陰謀論、近年の行き過ぎたようにも思われるリベラル思想だけではなく、カント以降の哲学者が営々と積み上げた思想的成果の大部分を否定し、神と教会の支配する中世的世界に人類を引き戻そうとしているように見えます。長谷川氏はキリスト教系の宗教団体の方ですから、まあこれもやむを得ないように思われますが、参政党までそんなことを考えるとなりますと、これは少々問題であるようにも思われます。

その他、エントリー中に思想家マルクーゼやコロンビア大学についての言及がありますので、これについても思うところをちょっと書いておきましょう。

コロンビア大学は、最近でこそ小泉進次郎氏が学ばれた大学としてニュースにちょくちょく登場しておりますが、以前は映画「いちご白書」の舞台として人口に膾炙しておりました。この映画、1968年に勃発しましたコロンビア大学の学生運動をモデルとしたものだったのですね。で、マルクーゼ氏は当時の学生運動の中心をなす「新左翼」の思想的指導者であったのですね。

マルクーゼの主張は、確かにマルクス主義の系譜ではあります。だけどそれは、統制的なソヴィエト共産党の生き方とは異なる、初期のマルクスが重視した人間本来の性質である「類的性質」の重視であり、管理や締め付けの厳しい資本主義社会で失われていた人間性(この喪失を「疎外」と呼んでおりました)を取り戻すことを重視する姿勢に立脚したものでした。

当時の新左翼運動がまさに「反管理・反統制」が主眼で、特に米国では深刻化するベトナム戦争とこれに対する反戦運動を受けて、国内の締め付けを強化しようとする政府と、これに反感を抱く学生たちの間で対立が生じていたのですね。そういう意味では、「コレクティビズム」対「リベラル」の二項対立にあてはめれば、当時の米国政府なりコロンビア大学当局がコレクティビズムの側にあり、学生やマルクーゼがリベラルの側にあった。これは、コレクティビズムに属する共産主義なりマルクス主義と、リベラルに属する資本主義・市場経済の二項対立構造とは逆になっていたのですね。

歴史的な評論に関しては、他のエントリーにも書きましたからここでは省略します。では、今日目指すべき方向がどこにあるか、という点ですけど、基本的には、コレクティビズムは社会運営効率化の上で必要ではあるものの、それ故に個人の自由を抑圧すべきではない、という点なのですね。つまり、軸足はリベラル(自由主義)に置くべきだということ。そういう意味では、今日のトランプ氏のやり方は少々問題があります。ただ、反リベラルに立つ組織は衰退するというのがこれまでの経験則であり、独裁政権は長続きしない。これは、共産主義国家の大部分が破綻してしまったことからも理解されると思います。

今日の独裁国家として、ロシア、中国、北朝鮮が危険視されているのですが、これらの社会がどの程度効率的に運営されるかは極めて疑問なのですね。つまり、他の諸国が個人の自由を認めて新しい着想に基づく産業を伸ばしていけば、これらの独裁国家はいずれ破綻する。

東ドイツが政権を維持できなくなった理由は、西ドイツのテレビ番組で隣国の豊かな生活を東ドイツ国民が知ってしまったからだといわれております。今日では、テレビに加えてネットもある。情報の流通を阻止してしまうと、国民の知性の発達も阻害される。時代の変化はますます急速化するのではないか、これらの独裁国家は、そうそう長持ちできまい。そう私は考えております。

翻って我が国ですが、こちらもリベラルの方向に少し舵を切るべきところ。上に、川島氏のイエ社会批判を載せておきましたが、このような個人を抑圧する社会制度は我が国の発展を阻害してしまいます。ここは、徐々にでもよいからリベラルの方向に、少しずつ進んでいく。これが肝要ではないかと思います。

1 thoughts on “共産主義の上位概念:集産主義

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