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文系か理系かという区分は不毛

岡本裕明氏の11/2付けアゴラ記事「文系は不要か?:AIに淘汰されないために必要なこと」へのコメントです。


『文系と理系』という二項対立を想定することが、そもそも間違いです。かつては、すべての学問は「哲学(フィロソフィ)」でした。フィロソフィとは「知を愛する」という意味なのですね。そこに様々な専門分野が登場し、特に数学を用いる諸学が「理系」の学部にまとめられたというだけの話です。

アリストテレスは倫理から自然学まで、幅広い現象を扱っております。ウニの咀嚼器官は今日でも「アリストテレスの提灯」と呼ばれておりますし、彼の天動説がトマス・アクイナスの神学体系に取り込まれて中世の標準理論となったことから、ワインバーグはアリストテレスを非難しております。まあ、紀元前4世紀の人を非難しても始まらないと思いますが。

「コギト」で有名なデカルトは、心臓の動作原理について「熱機関説」を唱え、「ポンプ説」のハーベイと対立したり、遠心力や虹の7色ができるメカニズムについて解説しております。また、現象学を立ち上げたフッサールは、元々が数学者でした。ニュートンは、彼の物理学を「自然哲学」と呼んでおりましたし、イギリスの伝統的学会である王立学会の機関誌は「フィロソフィカル・トランザクションズ」なのですね。私はかつて、粉砕に必要な動力の文献を調査したとき、この雑誌に行きあたって驚いたものです。

今日は、学問分野が細分化し、他の分野の基礎的知識をほとんど持たない学者が増えていることは確かに問題でしょう。文系の諸学を学ぶ者も、数学や論理学の基礎は押さえておく必要があるでしょうし、物理学者は、少なくともカント哲学や現象学を押さえておかなくてはいけません。さらにこれに、今日の制御理論の知識を追加したら、世界に対する見方も開けようというものです。

このエントリーのもう一つの話題は、人の精神能力のあり方に三つがあるという点で、文系理系の議論と確かに関連はするのですが、ごっちゃにしてはいけない。つまり、カントの言う二つの知性(言語的数値的知性である『理性』と、言語以前の認識能力である『悟性』)そして『感性』で、これは岡田斗司夫氏の「あなたを天才にするスマートノート」で指摘した三つの能力『発想力』『論理力』『表現力』にも対応しております。この辺りは、長くなりますので、また別の機会に議論しましょう。

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