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デカルト、再び。「デカルト入門」を読む

このブログでは、虚数時間の物理学を長々と続けてきましたが、一応、昨日を持ちまして、時間は虚数的に振舞うという一点のみをニュートン力学に追加することで、マクスウェルの方程式とニュートン力学の矛盾は解消する、というところまでたどり着きました。

時間は虚数的に振舞う、というのは、はなはだ奇妙な主張のように聞こえるかも知れませんが、互いに等速直線運動する座標への変換を考えるとき、空間的原点の軌跡である時間軸は回転せざるを得ず、ガリレイ変換では時間軸と空間軸の直交関係が崩れてしまいます。

直交関係を保とうとすれば、空間軸も回転させる必要があるのですが、このとき、時間軸と空間軸の単位系をあわせる必要があり、その比例係数が光速となるであろうことは、マクスウェルの電磁場から予想されるのですが、時間軸も空間軸も、ともに実数として扱わなければならない、という理由はどこにもないのですね。

と、いうわけで、虚数時間の物理学は、どうやら正しい、と考えても良さそうです。とはいえ、この考え方は、ニュートン力学に加える修正を最小限にする、というだけのことであり、ローレンツ変換や特殊相対性理論を否定するものではありません。表現が違うだけ、なのですね。

で、どうせなら、虚数時間の物理学を一般相対性理論まで拡張しようか、と色々画策したのですが、一般相対性理論を簡単に理解することも説明することも難しく、これは当面パスすることといたしました。

その他の、ニュートン力学にとっての大問題は量子力学なのですが、こちらはハイゼンベルグの不確定性原理を受け入れればよいわけですから、ニュートン力学に要請される修正点は極めて軽微です。原理的に計測できないことは確定しないといった修正くらい受け入れても、ニュートン力学の屋台骨は揺らぐことはないでしょう。

そういえば、一般相対性理論にしたところで、重力によって空間は歪むというのが結論ですから、ニュートン力学に対する修正は、これも軽微といったところ。

その他の修正点は、物理法則は絶対的ではなく検証されるべき仮説であるという、学問の前提に関わる部分でしょう。まあこれは、既に物理学者が受け入れていること。ニュートン力学そのものとは、あまり関係のないお話です。

と、いうわけで、20世紀初頭の諸学の危機も、さほど驚くようなものではなかった、ということになりまして、私の興味は、再びデカルトに向かいます。で、開きました本がデカルト入門。ちくま新書のこの一冊は、お値段税別700円と買いやすい本ではあります。

しかし、知れば知るほど、デカルトという人はすごい人です。デカルトといえば「我思う故に我あり」という言葉で有名でして、これが後の現象学という、哲学の一大潮流に繋がっているのですが、更には座標幾何学の創始者でして、つまりは、空間を代数的に扱う技法の発明者。昨日のこのブログで展開した虚数時間の物理学も、座標を代数的に扱っているわけで、デカルトさんには足を向けては寝られません。

人間的には、デカルトは、書物に書かれていることを怪しみ、大学での研究に飽き足らず、諸国を遍歴、追いはぎに剣で立ち向かい、一人の女性をめぐって決闘をするという波乱万丈の人生。唯一の苦手はバチカンのみ、といったところでしょう。まあ、この時代、異端を火あぶりにする、なんてことが行われていましたので、さすがのデカルトも、これには少々、腰が引けています。

デカルトの研究対象は、哲学、数学はもちろんのこと、医学、天文学、光学、物理学、倫理学と広範に及んでおりまして、いくつかの間違いもしでかしているのですが、先駆的な成果の多さには驚かされます。なぜ虹が七色に見えるか、ということも、彼が説明を与えた様子です(p78)。

間違いといたしましては、心臓の熱機関説。これは、ポンプ説が正しく、心臓は筋肉の働きによって全身に血液を送り出しているのですが、デカルトは熱の作用によって血液を動かしていると主張しました。

もう一つの間違いは真空を否定したことでして、「希薄化」という概念を真空に代えて唱えています。まあ、これは正確に言えば間違ってはおらず、どんな真空といえども、ごく僅かな物質が含まれております。水銀柱の上にできました隙間は、普通には「真空」と呼んでいるのですが、実は水銀の蒸気で満たされているのですね。

これに対して、デカルトが提唱した正しい事柄の重要な点をいくつか上げておきましょう。

まず、他から力を受けていない物体の運動、すなわち慣性運動は等速直線運動である、ということ。なんと当時は円運動だと思われていたのですね。これは、月や惑星の運動が円運動だから。で、何故に天体が円運動をするかといえば、中心に向かう力が働いているから、というわけで、万有引力発見の一歩手前まで行っていたのですね。とはいえ、デカルトは、この力を、空間に満ちた物質の圧力であると考えており、これもデカルトの間違いの一つ、ではあります。

それから、今日では噴飯物なのですが、当時一般には、天体を構成する物質と地上の物質とは異なったものと考えられていたのですが、デカルトは宇宙を構成するものはみな同じ物体である、と提唱しておりまして、これは慧眼です。今日から見れば、否定された考えがあまりにもばかばかしく、デカルトの業績は、軽視されてしまうのも止むを得ないところでしょう。

デカルトの提唱したもう一つの重要なポイントは、数学の諸原理も神が創造したものである、という点でして、これ以前の常識、数学の法則は神以前の絶対的真実である、という考えを覆したことです。このことは、ユークリッド幾何学以外にも幾何学がありえる、ということを意味しているのですね。

そういえば、数学=創造された宇宙(上)(下)なんて本もありました。クイズは好きだけど数学はちょっと、という、どちらかというと文系人間向けの数学の良い解説書です。数学全般を網羅したものではありませんが、数学的思考法を理解し、身に付ける上での良書です。

それはさておき、数学の法則なり物理の法則も絶対的なものではない、という考え方は、ニュートン力学全盛時代には忘れ去られており、20世紀に入って、やっと人々が気がついたもの。17世紀にしてこんなことを提唱していたとは、少々オドロキではあります。

最後の問題は心身二元論でして、これに対しては、デカルトはいくつかの回答を与えている、とのことです。

まず第一は、精神は松果体(脳の一器官)に作用して感覚を受けとり運動を司る、ということですが、これだけでは回答になりません。ニューラルネットワークが精神を作り出している、という点にまで踏み込めばベストだったのですが、精神はそれ自体独立したものであるとの二元論からは、この結論には至りません。

もう一つは、日常的感覚からの回答で、「そうは言ったって、私の思うように、私の手は動いているではないか」というもので、本書の著者はこれで納得しているのですが、論理としては少々弱いのですね。

結局のところ、私がデカルト心身二元論の真意であると考えていた心身二面論は、デカルト自身の考えには含まれていない様子で、新たに提唱する必要がある考え方であろう、という結論となりました。

その他、倫理や日常世界に付いても興味のある記述がなされているのですが、これらにつきましては、いずれ機会がありましたら、ご紹介いたします。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。