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オブジェクトの罠。ポパー「果てしなき探求」再読

ポパーの「果てしなき探求(下)」につきましては、以前、好意的に紹介したのですが、よく読みますと釈然といたしません。

1. シュレディンガーの猫

このブログでもたびたび取り上げている、シュレディンガーの猫の思考実験について、ポパーは同書102ページのあたりで触れております。

この実験に対する、アインシュタインとポパーの解釈がなかなか面白い。つまり、ポパーはアインシュタインのシュレディンガーへの手紙を引用して、次のように書いています。

もし猫を爆弾の隣に置いておけば、猫の死ぬ確率もまた1/2であろう、とシュレディンガーは論じた。実験装置の全体は量子力学の見地から叙述できるものであり、しかもこの叙述では猫の二つの状態―生きている猫と死んだ猫―が同時に存在することになろう。したがって、量子力学的叙述―ψ関数―は何ら現実的なものを叙述していない。それというのも、現実の猫は生きているか死んでいるかのどちらかだからである。

アインシュタインはシュレディンガー宛の手紙の中で、これは量子力学が主観的で不完全なことを意味する、と論じている。
……
もしψ関数を[それによって記述される現実の物理的過程の]完全な叙述と解
釈しようとすれば、……これは問題の瞬間において猫が生きてもいなければ
いささかも焼け焦げてもいないことを意味するでしょう。

もし[ψ関数の完全性に対する]この見解を拒否するならば、ψ関数は現実の
事態を記述しているのではなくて、その事態についてのわれわれの知識
の全体を記述しているのだと仮定しなければなりません。
……
しかしながら、私の傾向性解釈を受け入れるならば、このジレンマは解消し、量子力学つまりψ関数は―決定論的事態をではないが―現実の事態―現実の傾向を叙述しているのである。事態が決定論的でないという事実は不完全性をあらわしているものだといわれるかもしれないが、この不完全性は理論の―叙述の―欠陥なのではなくて、現実の、事態そのものの、不確実性の反映でありうるのである。

さて、この幾重にも入れ子になったような「現実の事態」あるいは「客観的事実」に対する、アインシュタインとポパーの、理解の構造が実に興味深い点です。

2. アインシュタインが求める客観的で完全な理論

まず、アインシュタインによると、「主観的で不完全」ではない理論、というものは、現実の事態の記述である、ということになります。真に価値がある物理学の理論とはそうしたものである、とアインシュタインは主張するのですね。

ここで、「記述」という言葉が、一つ気になる点です。

記述であれば、記述する主体が存在するはずで、その主体は、何らかの精神的機能を有するもの、でなければいけません。なんとなれば、「記述」とは精神的機能の内部に形成される概念を用いてなされるものに他なりませんから。となれば、「記述された内容」は、客観的な存在ではありえず、その精神的機能を有するものの主観の表れであって、その精神的機能の完全性が保証されない以上、不完全性を併せ持つことになります。

「記述」という用語、実は、フッサールの流れを汲む現象学者でありますメルロ・ポンティが強調している言葉でして、「われわれにできることは説明することではない。記述することである」と、ポンティは彼の著書「知覚の現象学(高価な本ですのでご注意を)」の中で繰り返し主張いたします。この場合の「記述」は、不完全な人間精神による主観的な記述であり、その主観が他者と共有される「間主観性(相互主観性)」により、客観たりえるのだ、と現象学は主張いたします。

しかし、アインシュタインは、この「記述」という用語を、主観から独立した「現実の事態」という言葉と組み合わせております。となりますと、これを記述する主体は、人間精神を超越した、絶対的な主体、ということになり、行き着く先は「」か「独我論」しかありません。

3. ポパーの傾向性解釈

ここでポパーが論じていることは、「現実の事態の記述」とのアインシュタイン的物理学の位置付けを引き継いだ上で、「不確実性」なり「確率」といったものを主観的であるとするアインシュタインの主張に対して、物自体が不確定性をもっており、確率的にしか論じられないこと自体が現実の事物を反映しているのだ、と主張します。

つまり、事物には傾向性がある、という解釈ですね。主観との関連性の強い「確率」と異なり、「傾向性」とは、事物自体がもつ実在の特性である、とポパーは説きます。

しかし、このポパーの傾向性解釈にしても、主観から独立した事態の叙述であることに変わりはなく、目指すところはアインシュタインと同じです。つまり、ポパーの行き着く先も、神か独我論、ということになってしまいます。

ポパーの傾向性解釈にも、釈然としないものがあります。そもそも確率を扱う必要性は、精神的機能を有する主体が結果を知ることができない状況下、で生じます。

ここで時間という概念を持ち出しますと話がややこしくなりますので、時間が関係しない例で考えることにいたしましょう。

例えば、ゲームで言えば、伏せられたカードが何であるかは、プレーヤーにとっては確率の問題ですが、事実は既に確定しています。山の中のマージャンパイや丁半博打の壷の中のサイコロも、事実が確定しているにもかかわらず、それが何であるかをプレーヤーが知り得ない状況下で判断を下すゲームであるわけです。

このときそのカードが何であるかを確率の問題として取り扱わざるを得ないのは、プレーヤーが知らないということ、つまりプレーヤーの主観が問題なのであって、事物そのものの不確実性とは無縁の話です。

シュレディンガーの猫も、この類の不確実性である、と私は思います。少なくとも、既に生死の決着がついていて、ただ蓋を開けないから分からないのだ、という状況下であれば、伏せられたトランプと全く同じ問題です。

4. 波動がもつ不確定性

一方、波動がもつ不確定性、という数学的原理がありまして、決まった周波数をもつ波であっても、それを短時間だけ観測した場合には、その周波数は分布を持って観測されます。

量子力学の不確実性を記述しておりますハイゼンベルグの不確定性原理は、運動量と位置、ないしエネルギーと時刻を、ともに正確に測定することはできない、という原理ですが、これは、物体が粒子性をもつと同時に波動性をもつ以上、受け入れざるを得ない原理です。

なにぶん、エネルギーは周波数に対応しておりますので、エネルギーを正確に測定するためには一定時間の計測が必要であり、極めて短かい時間内でのエネルギーを正確に測定することはできません。また、4元時空の元では、同じ関係が運動量と位置の間に成り立ちます。

原子のサイズになりますと、この波動性が無視できない世界でして、電子は原子核の周囲に波動として存在し、電子がどこにあるかは、各位置での存在確率としてしか記述できませんし、電子がエネルギーを失う際に発生する光子もどこに飛んでいくか分かりません。放射能を持つ原子核の内部で生じている現象も同様でして、放射線がいつ、どの方向に放出されるかは、不確定性原理の記述するところなのですね。

しかし、その結果であるシュレディンガーの猫の生死は、単に人が知りえないだけです。伏せられたトランプと事情は同様でして、猫の生死は確率的に議論するしかありません。

ポパーは、猫の生死の確率を、事物自体の持つ傾向性、と解釈しようとするのですが、それを確率的にしか議論し得ないのは、人が知らないからであるに過ぎません。実際の事物自体としては、猫は、生きているか、死んでいるか、のどちらかであるのですね。そういう意味では、アインシュタインの主張に一理あります。

では、アインシュタインが正しいのか、といいますと、実は彼も間違っている、と私は考えております。そもそも、事物自体などを人は知りえず、事物自体を議論しようとする、出発点が間違っているのですね。

5. オブジェクトの罠

科学が客観的(オブジェクティブ)でなければならないのは当然なのですが、知覚の対象(オブジェクト)であります事物自体について議論しようとする、これが間違いなのでして、こういった誤解が蔓延する一つの理由は、オブジェクトなる言葉の二義性にあるのではないか、と私は考える次第です。

科学は、人間精神による記述であり、知覚を通して精神の内部に構成された概念を表現したものです。それが客観的となりえるのは、他者も同じ概念を持つことができるからであって、多数の人間から構成される社会が、それ自体、ある種の精神的機能を有するからに他なりません。

もちろん、知覚の彼岸には事物自体の世界が存在し、それが多くの人に類似した概念を生ぜしめていることは確かです。そうでなければ、事物に対する他者との概念の共有はできません。また、その事物自体の世界は、そこに人間精神が一貫した概念や法則性を見出し得る程度には、規則的な挙動をしている、ということも疑いようのない事実です。

しかしながら、人がそこに見出す概念(物理学で言えば、座標とか、速度とか、エネルギーなどなど)にせよ、物理法則(重力の法則とか、運動方程式とか、相対性理論などなど)にせよ、これらはみな人の精神的働きの内部に構成されるものでして、アインシュタインが否定的に書いております「その事態についてのわれわれの知識の全体」こそが科学である、といえるでしょう。

主観、客観の概念を混乱させるオブジェクト」の罠から逃れるためには、主(あるじ)の観かたと、客の観かた、という、東洋的な主観、客観概念に依って立つのが良いのではないか、と思う次第です。