おそらくは今シーズン最後のプールサイドでの読書、選びました本は養老孟司著「カミとヒトの解剖学」です。
養老氏の書物は、これまでにもいろいろと紹介しておりますが、特に、以前ご紹介いたしました「唯脳論」は、なかなかユニークな書物との印象を受けております。
本日読みました本は、唯脳論を引き継ぐ形で論を発展させたもので、これも大変に面白い内容を含みます。
と、いうのは全部読んでの話でありまして、同書を購入いたしました理由は、出だしが面白かったからです。
養老氏は、ご存知のように、解剖学者でして、日常的に死体を相手にしておられる方です。で、ご自宅が寺の境内で、隣が墓場、というのですね。まあ、真夏に読むには良い本、かもしれない、、、などと、軽い気持ちで購入したのが実情です。昨日のブログに「軽めの書物」などと書きましたのは、そういう理由だったのですね。
しかし、読み始めますと、このところのこのブログで扱っております話題に近い話がごろごろと出てまいります。とても「軽めの書物」などとはいえないことに、読んでみてはじめて気が付いた、という次第です。そういうわけですから、本日のところは、この本の重い部分をしっかりと受け止めるようにいたしたいと思います。
さて、同書の最初の方は、唯脳論の繰り返し的な記述と、脳死に関する著者の薀蓄がありまして、このあたりまでは、軽い気持ちで読み進むことができます。しかし、143ページ「心身論とニューサイエンス」になりますと、これはなかなか難しい話になります。
まず登場いたしますのが、エックルスとペンフィールド。このお二方は、脳科学者なのですが、霊魂が存在するとする、心身二元論を主張いたします。これに対する養老氏の考え方は次のようなものです。
エックルスもペンフィールドも、脳を直接の研究対象とした。この人たちに生じたことは、「自分の脳を忘れた」という現象である。自然科学は、その前提として、取りあえず自分の脳を忘れるのである。こうして対象は「唯物的に」、すなわち客観的に吟味可能となる。しかし、その世界は、定義上「心」を失う。「心」は自分の脳に属する世界だからである。エックルスもペンフィールドも,仕事上で調べたのは、他人の脳に過ぎない。あるとき、自分の脳の存在に気づき、それで仰天する。やむを得ず、他人の脳に、自分の脳をむりやり押し込む。そうすると、サイコンが生じ、二元論が生じる。これも、広義の自己言及の矛盾であろうか。
ここで、「他人の脳に、自分の脳をむりやり押し込む」という表現が理解し難いのですが、「対象としての脳を理解するにあたって、自らの主観なり実感なりと矛盾しないことを要求する」、というような意味に私は理解いたしました。
次に登場いたしますのがシュレディンガーでして、少し前の本ブログでも再読いたしております「精神と物質」を引用いたします。
シュレディンガーによれば、心は科学の前提である、というわけです。シュレディンガーは、これら全てを統一するためヴェーダーンタの哲学にまで進んでしまうのですが、養老氏はこれには批判的です。しかし、養老氏の以下の記述は、少々、的を得ていないような感があります。
問題は、彼がすべての「統一」を目指し、そこまで行かなくては、気がすまなかったことであろう。なにも世界を統一する必要はない。統一すべきなのはたかだか自分の頭である。それにしても、考えすぎれば、頭の統一は難しくなる。……「精神と物質」。この二つが分離してしまうのは、「精神」のせいである。それなら、われわれの頭には、両者を分離する癖があるらしい。それで宜しかろう。なぜ、両者が分離するのか。それは、脳の問題として、これから調べればいいのである。それがそうならないについては、現実感の問題がある。精神が「現実」になると、科学にとっては、話がややこしくなるのである。
この問題に対する私の考え方は単純です。科学を研究するのは、科学者の精神的機能なのですが、その結果生まれるものからは、研究者の主観は排除され、物自体が元々持っている性質なり法則なりが研究の成果、すなわち科学そのものとされます。だから、その科学の論理の中で、自らの精神について考えるのは、科学の枠を超える行為である、といえるでしょう。
ヴィトゲンシュタインは、さすがに、このあたりの事情を良く理解しておりました。以前ご紹介いたしました彼の「論理哲学論考」によりますと、
5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である
と、主体をヴィトゲンシュタインの論理世界の外部においております。科学も、その成り立ちからして同様のことが言えまして、自らの精神的働きに関しては自然科学の世界観で語ることはできない、ということですね。
あ、そうそう、本日は本屋で、ヴィトゲンシュタインについて書かれました本も立ち読みいたしました。これは、論理哲学論考のテーゼ7
7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
の真意を知りたいと考えてのことです。調べた結果、これはどうやら、「ヴィトゲンシュタインの世界」の限界外にある、倫理などの問題に関しては沈黙する、という意味である様子。私の立てております原理「知り得ないことは語り得ない」とはずいぶんと異なっております。
ともあれ、このように自然科学の限界を意識いたしますと、世界を理解するには自然科学だけでは足りない、ということもいえるようになります。唯物論なり、科学的世界観なりで、すべてを律することはできない、というわけですね。
ただここで注意しなければいけないことは、対象が自然科学の領域に属することなのか、自然科学の対象外のことであるのか、ということをきちんと判別すべきことであって、これを忘れると、単なるオカルトの世界になってしまいます。
閑話休題。養老氏の本の紹介を続けましょう。このご本、興味深い話が続くのですが、ここでは、途中は端折って、最後の面白い話題へと飛びます。291ページ、「アインシュタインの美意識」です。
まずここで、養老氏は、光子の粒子性と波動性を併せ持つという事実から、観測問題の「多世界解釈」に話を飛ばします。これはずいぶんと乱暴な話の展開ではあるのですが、間違いではありません。
次に、位置と運動量の不確定性は位置と時間の問題であるとして、アインシュタインの相対性理論でも生じた問題である、といたします。これは少々おかしな物言いではあります。この間には、たしかに、時間という共通項はあるものの、全く異なる問題です。
さらに、ゼノンのアキレスと亀のパラドックスとなりますと、これも時間と距離に関係はするのですが、全く別の話。以前ご紹介いたしました池内了氏の「物理学と神」によりますと、このパラドックスはギリシャ時代に「無限大」という概念がなかったが故のパラドックスである、とのことです。
結局のところ、養老氏が上げましたこの三つの難題は、確かに時間と空間という要素を含みはするものの、互いに別個の、源を異にする問題である、と考えるしかありません。
養老氏によりますと、位置と時間、という二つの相異なる概念は、目と耳、静と動に対応するといたします。これらの間には、確かに対応関係はあるのですが、ある種の神秘主義のような気配を感じさせ、眉唾的印象を受けるのですね。
この対比に対し私が思いますことは、これは理性と感性、ロゴスとパドスという、人が人である以上いかんともしがたい、二つの、時には相矛盾し、対立する要因を持つことによるのではないでしょうか。これは、量子力学とも、相対論とも、ゼノンのパラドックスとも、無縁の話、なのですが。
理性と感性の対立という問題は、なかなかに奥が深い話でして、これを語りだすと長くなってしまいます。これに関する論評は、また別の機会にいたしたいと思います。