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シュレディンガーならぬ赤瀬川原平の「ネコ」は?

「間主観性上に科学哲学を構築する試み」を、本日は違う方向から眺めてみましょう。

間主観性上に構築された科学哲学を受け入れますと、HPのオリジナル文書にもおきましたように、量子力学の難問であります観測問題が「単に知らないだけ」ということで片付いてしまいます。

本日はこの学説を補強する、もう一つの例をあげてみようと思います。これは、赤瀬川原平の「宇宙の缶詰」に準じた考え方でして、シュレディンガーのネコの実験を箱の内外を逆転して行うというものです。

赤瀬川原平の「宇宙の缶詰」といいますものは、ラベルが内側に貼ってある缶詰です。缶詰の缶は、良く考えれば宇宙空間を二つの部分に分ける働きをしており、この宇宙は有限の大きさですから、缶のどちらが内側でどちらが外側であるかはどうでも良い話なのですね。

で、缶詰の内外は、体積の大きい側が外側である、と定義してもよければ、ラベルの貼ってある側が外側である、と定義しても良いわけで、後者を採用するなら、この缶詰、確かに中に、宇宙の大部分が入っている。ま、缶の外側の部分(ラベルの貼ってある側)は入っていないので、「少し足りないじゃないか」と文句を言うことはできますけど、、、

さて、本題に入りましょう。「逆シュレディンガーのネコの実験」あるいは「赤瀬川原平式のネコの実験」とも呼ぶべきこの実験は、公開された場所にガイガーカウンターと放射性物質を置き、確率50%でネコの生死が定まるようにいたします。実験を行う科学者のみが箱の中(というか、外、ということにしているのですが)でこの実験結果を考察する、というわけです。

実はこの着想は以前のこのブログにも書いたのですが、宇宙を「赤瀬川原平式の箱」の内部(普通の感覚では、外側、なのですが)に閉じ込めることで、より完成度の高い実験となります。

つまりは、物理学者に大きな箱の中に入って(から出て、ですね)いただいて、実は物理学者だけが箱の外側にいる、と考えるわけですね。これを視覚的に補強する要素として、箱の内側(というか、つまりは外側)がラップしてある。まあ、クリスマスプレゼントを包む紙が、箱の内側(外側、なのですよ)を覆っており、ご丁寧に、リボンまで掛けてあるのですね、内側に(これも外側。当然、接着剤を使わなければリボンはとまりませんけど)。

これをテレビのバラエティー構成にするやり方については、以前のブログをご参照ください。ただ、赤瀬川原平を持ち出すからには、ご本人にご登場いただいて、宇宙の缶詰をご披露いただくのが宜しいかと思います。ま、少なくとも、この缶詰に言及しないと、ただのパクリとの誹りを免れないでしょう。

で、できれば、缶の内外に特別な区別があるわけではない、ということを、トポロジーがご専門の数学者に解説していただけるとありがたいのですね。

さて、ここまで来ますと、シュレディンガーのネコの実験の本質が見えてくると思います。

この実験において、ネコの生死は瞬時に定まります。しかし、箱の中(じゃなくて、外)の科学者にとっては、ネコの生死は重なり合った状態にある、ということもできるのですね。これはつまり、宇宙全体が重なり合った状態にある、ということになります。

ふうむ、これは、コペンハーゲン解釈と、多世界解釈とが、双方成り立つ状況、ともいえそうですね。少なくともこの実験、観測問題に対する二つの異なる立場を橋渡しする、という意義はありそうです。ま、箱の中(外みたいな)の物理学者には、そのような考えが芽生えても不思議はありません。これはこれで一つの進歩、かもしれない、、、

まあ、コペンハーゲン解釈にせよ、多世界解釈にせよ、ぜんぜん問題はない(つまり、学問的には矛盾がない)、とも言えるのですが、これを外部(箱の内側、ですけど)の人から見れば、どのように考えるのが「普通」でしょうか。

単に科学者がネコの生死を知らないだけ、と考えるのが通常の考え方というものではないでしょうか。

もしそう考えていただけるといたしますと、これは、間主観性上の科学哲学の立場に一致するものでして、そういう意味からも、間主観性上の科学哲学は、通常の人間の感覚に良く一致する立場である、ともいえることになります。

間主観性上に構築された科学哲学の立場では、量子論を特別視する必要はありません。これは、量子論が間違っているという意味ではなく、間主観性上の科学哲学が、古典論も量子論も、同等に扱うことができる、ということを意味してます。

一般に、適応範囲の広い理論の方がすぐれた理論であると考えられているのですが、このケースではどうでしょうか。まあ、我田引水的な話で申し訳ないのですが、「間主観性上の科学哲学」、筋の良い考え方であるように思えて仕方がありません。