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磯城纏向の里で思うこと

以前のブログで我が国の古代史について多少述べたのですが、いろいろと気になることもありましたので、先週磯城纏向の里を訪ね、卑弥呼の昔に思いをはせてまいりました。

訪れましたところは、まずは唐古鍵遺跡とその資料館、桜井市の埋蔵文化財センター、箸墓古墳、勝山古墳、そして、崇神、景行陵です。暑い日ではありましたが、曼珠沙華の咲き乱れる農道を自転車で走るのは快適でした。

現地の状況につきましては、ネット上にもさまざまな情報があふれており、ここで改めてご紹介する意味もあまりないと思います。そこでここでは、この地で何が起こったかということについて、私の感じたこと(独断によります推理)をご紹介したいと思います。

まず、弥生時代後期、この地に銅鐸を製造する大規模な集落が存在したことは唐古の集落遺跡の発掘結果から間違いのないところです。唐古が栄えた時期に続いて、纏向に大規模集落が形成され、北九州から東海地方に至るまでの広い範囲に影響力を及ぼす力を有したこともまず間違いのないところです。

纏向周辺にはいくつかの古墳があるのですが、北の勝山古墳と南の箸墓古墳に向かう水路跡が確認されており、この二つの古墳は纏向集落にとって重要な古墳であったものと考えられます。そして、箸墓古墳の建造時期が卑弥呼の死亡年代と重なっているということから、箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか、という説も唱えられております。

さて、ここでは纏向集落が邪馬台国の首都であり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であったという説を取り入れることといたしましょう。そもそも「邪馬台国」が「ヤマトノクニ」であったということはありそうな話であり、「ヤマト」はおそらくは「山戸」ないし「山門」、即ち山に囲まれた地域を意味したのではなかろうか、と私は考えております。で、「卑弥呼」は、おそらくは「ヒメミコ」、姫御子ないし姫神子の音が伝えられたのでしょう。

纏向集落が邪馬台国であり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとした場合、それからわずか100年後に場所を同じくして成立した崇神王権との関係が謎ということになります。これは言葉を換えて言えば、卑弥呼がおりました邪馬台国でありますところの「旧ヤマト政権」と、崇神王権でありますところの「新ヤマト政権」との関係が謎ということになります。

一つのヒントは、崇神王は記紀では第10代とされているのですが、これ以前の王の実在は疑わしく、実際のところは崇神王が今日の天皇家に連なる初代のヤマト王であるものと考えられている点です。これが事実であるといたしますと、なにゆえに崇神王以前の王の存在を作り上げる必要があったのか、という点が一つのヒントになります。

第二のヒントは、ヤマト王権は祭祀も司っているのですが、祭祀に秀でていたのは旧ヤマト政権であり、おそらくは北九州から東征してきた新ヤマト政権は軍事政権的色彩が強いという点です。

これからから、新ヤマト政権は旧ヤマト政権を継承する形をとったのではなかろうか、という推理が成り立つように、私には思えます。これは、第一には旧ヤマト政権の版図でありました東海地方までを支配下に置くためでもありますし、第二に従来の権力の基盤でありました軍事力に加えて宗教的な権威を取り込むことで、長期政権を可能にするという目的があったと考えることができます。

そうなりますと問題となりますのが卑弥呼の墓とされます巨大な箸墓の古墳であり、これを先祖というわけにもいかず、おろそかに扱うわけにもいかず、結局天皇家につながる人物の墓ということにし、後には、女陰に箸を突っ込んで死んでしまったという不名誉な話を作り上げたのではないでしょうか。

卑弥呼の墓は円墳であったと記録されているのですが、現在の箸墓古墳は前方後円墳であり、しかも前方部は後の時代につくられた可能性が指摘されています。これは、さほど古くもない時代の遺物をすり替えるための手であったのかもしれません。つまり、卑弥呼の円墳につなげて方墳を築き、これを別人の墓とする。時代が下れば両墓は一体とみなされ、卑弥呼の墓も別人の墓ということになってしまいます。

真相は、発掘調査をすればわかるかもしれませんが、箸墓古墳は宮内庁の所管となっており、発掘調査は現在認められておりません。このあたりは日本人の基本的な部分であるだけに、真相を知りたいという思いと、そっとしておいたほうが良いかもしれないという思いが拮抗するところです。

その後のヤマト王権は、卑弥呼とは系統を異にしている可能性が高いと私も思います。しかしながら脈々と天皇家に受け継がれた宗教的権威がかくも長きにわたって皇統を持続する要因となったことも確かであり、その源が邪馬台国の卑弥呼らにあったといたしますと、その我が国における存在意義もまた大きなものがあったわけで、そういう思いを胸に箸墓の大墳墓を眺めますと感慨もひとしおであるわけです。

後円部。古い街並みの先に、巨大な箸墓古墳が現れます。
後円部
右が円墳部、前方が前方部。カーブの具合が分かりますでしょうか?
つなぎ

箸墓古墳前方部。訪れる人もいない稲田の向こうに、ひっそりと鳥居が立っています。
前方部