本日は趣を変えて木田元氏編著になります「ハイデガー『存在と時間』の構築」を読むことといたしましょう。
後編を推理する
私の好きなミステリー作家の一人が米澤穂信氏なのですが、彼の作品の一つに「愚者のエンドロール」と題するミステリーがあります。このミステリー、解決編を書かずに寝込んでしまった作者に代わって解決編を推理するというお話でして、学園祭で上映する自主制作映画というどこかで聞いたような話も面白いですし、「分裂」の続きがいつまでも出てこないことに業を煮やして後編を勝手に作ってしまうきっかけともなりました、いろいろと思いの深い作品でした。
で、木田元氏が取り組みましたのがハイデガーの未完に終わりました主著、『存在と時間(上) (下)』の後編を推理してしまおうという、恐るべき試みでした。この書物のユニークなところは、この無謀ともいえる試みを本気でやるということでして、これを平易なことばで読者に解説しようとする点にあります。つまり、この驚くべきミステリーにお付き合いをしているうちに、読者はあの難解なハイデガーの思想や現象学もおぼろげながら知ることになるわけです。とってもお買い得な一冊ですね。
木田元氏の書物では以前「現象学」を読んでおりますが、ひょっとすると将来彼の主著とみなされますのはこちらとなるかもしれません。
ハイデガーは、現象学の創始者でありますフッサールの一番弟子と目された方ですが、彼はフッサールの現象学を深化発展するどころか、まったく別の道に進んでしまいます。で、メルロポンティが現象学の後を引き継いで発展させていくのですが、現象学とは似て非なるゲシュタルト心理学に向かってしまったように、私には思われます。同書を読みますと、このあたりの事情がなんとなく見えてくる、そういう意味で私にとりましては非常に面白い書物ではありました。
環境世界理論(生物学)の影響
まずは、当時の哲学界と生物界の事情が目を引きます。これで、ポンティがゲシュタルト心理学に傾斜する理由もわかるように思います。
ユクスキュルは時代のそうした(物理学万能の)支配的風潮に逆らって、生物体は、それがおのれに固有な環境世界とのあいだにとり結んでいる機能的円環関係のうちで捉えられねばならないと主張し〈環境世界理論〉を提唱した。
彼の考えでは、動物はそれぞれの種に応じて、その感受しうる可能的刺激の総体と反応可能なものの総体とからなる固有の環境世界を有している。ハエの環境世界には「ハエの物」、ウニの環境世界には「ウニの物」があるのだ。生物体はそうしたおのれの環境世界に適応し、その環境世界との機能的円環関係の中で自分の有機的統一性を維持している。従って、その生物体を環境世界から切り離し、実験室に連れ込んで、それを解剖したり実験の対象としたりするのでは、もはや生物体を生物体として扱っていることにはならない。生物体は、あくまでそれがその環境世界に適応し、そこで生きているがままのあり方で捉えられなければならない、とユクスキュルは主張したのである。
……
シェーラーは、一時期フッサールの現象学に共感し、フッサールに師事しながら、その後意見を異にして離れていったいわば異端の弟子であるが、それでも心理学の改造から出発したフッサールの現象学の初発的発想をかなり忠実に受け継ぎ、当時進行中だった生命科学の諸領域での方法論的改革の運動のもつ哲学的意味に着目して、この運動の推進に協力した。…………その際シェーラーは、一般の動物がその生物学的環境に完全に取り込まれ、そこに繋ぎとめられ縛りつけられている――〈環境世界緊縛性〉――のに対して、人間はおのれの生物学的環境からある程度脱け出し、それにある距離をとり、〈世界〉というもっと広大な場面を構成し、それに開かれて生きている――〈世界開在性〉――と考え、そこに人間を他の動物と分かつ特殊性を見ようとする。
……その理念は、やがてシェーラーの影響を強く受けながら、ドイツの現象学をフランスに移植することになったメルロ=ポンティの『行動の構造』(1942)において、多少違った視覚からではあるが、具体化されることになる。
一方、ハイデガーは、「生物学者が生物のこうした一般的存在構造を確定できたのは、彼があらかじめ哲学者として〈世界内存在〉という自分自身の存在構造を了解していたからだ。哲学者が生物学の影響を受けたのではなく、むしろ生物学が哲学を基底に据えているのだ」と逆の主張をするのですが、木田氏にかかりますとハイデガーのこの主張はあっさりといなされてしまいます。
しかし、よく読んでみれば、彼は、実証的な生物学的研究からは〈環境世界理論〉のようなものは生まれないのであって、こうした理論を形成するときユクスキュルは生物学者としてではなく哲学者として考えていたのだと言っているだけであって、けっして自分が受けたユクスキュルからの影響を否定していることにはならない。案外語るに落ちるといったかたちで、ついぽろりと本音を洩らしたようにも思われるのである。
頭の良い方の丁々発止のやり取りは、傍で見ていて面白いものがありますね。
とは言いましても、こんな調子でご紹介しておりますと、いつまでたっても先に進みません。同書の重要と思われる部分について、以下、章を改めてご紹介を進めることにいたしましょう。
東洋思想に近いギリシャ思想
さて、同書の目からうろこの部分は、ギリシャ思想は、少なくともソクラテス・プラトン・アリストテレス以前までは、東洋思想に極めて近い思想であった、という点です。そして、ソクラテス以降のギリシャ哲学は、彫刻などの創作過程から思想を形成した、というところが面白い点です。まあ、ギリシャはヨーロッパの中では東洋に近い存在ですし、そもそもの西洋思想がソクラテス以降のギリシャ思想の上に形成されているわけですから、ある意味当たり前の主張であるともいえるのですが。
ハイデガーは存在には本質存在と事実存在の二種類があるといたします。本質存在とは形相(外観)であり、事実存在とは質料、つまりモノを構成する材料に相当いたします。これを彫刻にあてはめますと、彫刻家の頭の中にある形が大理石などの材料を刻むことによって彫刻として実体化いたします。そして、彫刻を鑑賞するときに人々は、その彫刻により作者が何を意図していたのかを考えることになります。これが本質存在重視の考え方であり、プラトンのイデアを重視する考え方などまさにこれに相当するわけです。(アリストテレスは質料も形相も平等に扱っているように私には思われますが。)
これが後の時代に伝わりますと、万物は神の創造物であり、人々はその中にこめられた神の思いを知ろうと努めることになります。つまり、本質存在の重視が西洋思想の中心をなすことになります。
しかし、こんな考え方は非常に奇妙であるように私には思われます。たまにマンガの登場人物が作者について語ったりするギャグがあるのですが、神の意図に思いをはせるなどまさにこのギャグを地で行くような行為です。かりに人々が神の筋書きを演じている役者であったとしても、役者が作者のことなど考えるようでは三文オペラ。まるで上司の顔色を伺う木っ端役人のような情けない話であるように私には思われます。ここはギャグを演じても始まりません。もっと自分に素直に生きたらよいのではないでしょうかね。そしてそれこそが神の意図であるように私には思われます。もちろんこれは、創造者たる神が存在する場合には、ということなのですが。
「である存在」と「がある存在」
事実存在と本質存在のもう一つの形態が、「である存在」と「がある存在」でして、「である」が「本質」に、「がある」が「事実」に対応しております。この二つの区別につきましては、以前アリストテレスを読んだときにも感じたのですが、ヨーロッパ系の言語で英語のbe動詞に相当する動詞の意味が複数あることが事態を混乱させているだけのように私には思われます。
つまり、be動詞の意味の一つが「存在する」という意味でして、デカルトの“ego sum”のsumがまさにこれに相当いたします。もう一つの意味は属性を表す意味で、be動詞に続いて形容詞が現れますと、主語を形容する、つまりは主語に現れました対象の属性を表すことになります。更にもう一つの意味がカテゴリーを表す意味で、英語を習いますとき最初に出てまいります“I am a boy”だとか“This is a pen”などが主語の属するカテゴリーを指定しております。
このカテゴリーが本質ということになるのですが、be動詞のもう一つの意味、「属性」となりますと、これは本質とはいえないような気もいたします。ここは、be動詞のもつ複数の意味をきちんと使い分けて議論しなければいけないところでしょう。
ちなみにこの意味の分離に相当する作業はデカルトも行っているように私には思われます。つまり、存在を「広がり」としての存在と「属性」としての存在に分けて議論しております。そしてデカルトは属性としての存在は、人の精神内部に形成される存在であるといたします。もちろん、今日では広がりという概念も人の精神内部に形成すると考えるべきなのでしょうが、be動詞の二つの意味がアリストテレスの昔から、デカルトを経て、ハイデガーまで引き継がれておりますことは、なんとも壮大な絵巻物のような世界であるように私には感じられます。
さて、同書によりますと、こうして本質存在重視でまいりましたヨーロッパの思想がカント、ニーチェによって(事実存在重視の)古い思想に回帰し、これをハイデガーが引き継いだ、とのこと。これはけっきょく東洋思想と軌を一にする思想でして、これまでこのブログで延々と論じてまいりました私の考え方とも一致しております。
西洋の思想は大いなる回り道をしたわけですが、それもけっして無駄なことではありません。なにぶんこの間、東洋思想がどれほどの発展を遂げたかといいますと、ほとんど何もない。かえって古い姿が見えにくくなっているだけのようにも思われます。その点、回り道といえどもいろいろと考えました西洋思想に、一抹の利点もあったのではなかろうか、というのが私の偽らざる感想なのでした。
このテーマに関しては、後日のエントリー「筒井康隆著『誰にもわかるハイデガー』を読む」で改めて論じております。