前の記事のコメント欄で話題となりましたので、本欄に私の考えをまとめておくことといたします。
今日では意味を失ったカントのアンチノミー
まずご理解いただきたいのは、カントは200年以上昔の人で、日本で言えば江戸時代の人物であることを忘れてはいけません。カントの時代には、ニュートン力学やユークリッド幾何学が絶対的真実であると考えられておりましたし、無限大に関する理解も今日のレベルから見ますとゼロに近い状態でした。
カントは彼の主著「純粋理性批判」の最初の部分で三つのアンチノミー(二律背反)を取り上げ、理性が必ずしも万能ではないことを示します。しかしながら、以前のブログに書きましたように、これはカントの時代だからそういえることなのであって、無限大に対する理解や量子力学の進んだ今日では、これらの問題は理性で十分に語ることができる問題となっております。
唯一、第三のアンチノミーすなわち「自由は存在するか」は、今日でも難問の部類でしょう。この宇宙の全てが物理法則に従って運動しており人間といえどもその例外ではないといたしますと、人間もまた物理法則に従う存在に過ぎず、自由などというものは存在しないことになります。
この問題に対する私の解は、世界を理解する複数の視点があるということで、科学的に理解する限りでは人もまた物理法則に従う物体であるけれど、その物理世界にたまたま生成された私という存在の脳の中に形成された情報処理メカニズムの中では、私は自由があると感じている、ということなのですね。この科学的な理解とは、フッサールがいみじくも語っておりますように、自然科学は主体を排除した自然界の記述であるわけですから、そこに私の意識の内部の存在である自由などというものが介在する余地はないわけです。フッサールは、主体内部を論じるのであれば、外界を排除した純粋心理学の立場を取らなければならない、としております。要は、考えるべき土台が違う、ということですね。
以前のブログでは、第二アンチノミーに対して「問題の設定不備」などとしてしまいましたが、これが「物体をどんどん分けていったとき限界はあるのか」という問いであるとみなすなら、これは量子力学の問題ということになり、今日ではクオーク、レプトン、グルーオンが限界である、ということになります。ここで「である」と言い切っておりましてもそれが絶対的真実であるという意味ではなく、「現時点においてあらゆる反証を退けることに成功している仮説」というポパー的意味での真実です。
と、いうわけで、カントの哲学におけるアンチノミーの部分は、今日的意味をほとんど失っており、これが巷のカント関連書籍にほとんど書かれていないという事実は、今日の進化を遂げた数学や物理学への造詣が深いカント学者があまりおられないが故ではなかろうか、と私は考えております。数学者や物理学者にとりましては、カントのアンチノミーなどあらためて取り上げる理由もありませんしね。
カントの不可知論とコペンハーゲン解釈
では、カント哲学のどこが今日の科学にとって重要かといいますと、カントは、人はモノ自体を知りえず、ただ表象を知るのみである、といたします。ここで表象といいますのは、人の精神内部に形成された外界の姿、現われであって、それは現前に存在しているモノとは別個の存在であるというのですね。
量子力学に関しては、シュレディンガーの猫という有名な問題があり、多くの支持を集めております「コペンハーゲン解釈」の通俗的な説明では「死んだ猫と生きた猫が重なり合った状態」だというのですが、ブライアン・グリーン著「宇宙を織りなすもの(上)」によりますと、これは「
一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える
」としております。この説明によれば、波動関数とはモノ自体を記述するものではなく、われわれの精神内部に現れたモノ、つまりはカントのいう表象を記述したものであるということなのですね。シュレディンガーの猫にこれをあてはめますと、箱の中を見ていないのだから生きているか死んでいるかわからない、というだけの話になります。(参考1、参考2)
ハイゼンベルクは、その自叙伝「部分と全体」に、カント哲学を種々学んだ旨を記しております。ただし、彼がカント哲学をどのように解釈したかに関しての明確な記述は行っておりません。しかしながら、上に引用いたしました波動関数に対するハイゼンベルクの解釈は、カント哲学の基本的立場そのものあり、彼がカント哲学を受け入れ、始原的なコペンハーゲン解釈を打ち立てたことはまず間違いのないところであろうと考えられるわけです。(参考)
カントを全否定したシュレディンガー
一方、この問題を提起いたしましたシュレディンガーは、彼の著書「生命とは何か」の中で以下のように語ってカント哲学を全否定いたします。
そこの窓の外に一本の樹木がある。しかし実は、私に見えているのは樹木ではないのだ、というようなことが説かれたことがあります。或る巧妙な仕掛けによって実在の樹木はそれ自身の像を私の意識に投影し、私が知覚するものはその映像に他ならない。しかもその仕掛けのはじめの方の比較的簡単な数段階だけしか探られていない。もし君が私のそばに立って同じ樹木を眺めれば、その樹木は君の霊魂にも一つの映像を投げることになる。私には私の樹木がみえ、君には君のもの(著しく私のものと似ている)がみえるのであり、その樹木そのもの自体が何であるかはわれわれにはわからない、というようなとんでもない行き過ぎた考え方はカントによるものです。
これではシュレディンガーにハイゼンベルグ流のコペンハーゲン解釈が受け入れられるわけもなく、彼は最終的にインドのヴェーダンタ哲学へと走ることになります。この哲学は「梵我一如」すなわち「私=宇宙」というある種の独我論に基づくもので、すべてが主観に立脚する以上はこの考え方を否定することもできないのですが、精神内部の世界を重視するなら何故にカント哲学を毛嫌いするのか、その点が私には理解しがたいように思われます。(参考)
カントに距離を置くプラグマティズム
なお、今日の西洋思想の主流は、簡単に割り切ってしまえば「プラグマティズム」に基づいており、物理法則に対する基本的スタンスは「道具主義」、役に立つならそれでよかろう、とするものです。プラグマティズムは、あくまで現実世界における有用性を重視し、それが成り立つ原理を追及する形而上学(つまりは狭義の哲学)からは距離をおいております。これはこれで経済的には意味のある考え方なのですが、人々が自然に持つ「なぜ、どうして」という疑問には応えることができず、本当の意味での創造性を育む上では少々問題のある思想でもあるように私は考えている次第です。