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カント哲学の科学的意義、その2

前回に引き続き、今日の自然科学におけるカント哲学の意義についてもう少し書いておきます。

カント哲学の真髄は、人はモノ自体を知りえず、自らの精神内部に取り込まれた結果(表象)を知るのみであるとした点であり、さらには、理性(すなわち論理や因果関係)で全てを割り切ることはできないとしている点です。

カントの時代はニュートン力学の全盛期で、この宇宙の全ての物体はニュートンの運動方程式に従う存在であると考えられておりました。人の心に関しては、霊魂が存在するとするキリスト教的な考え方が根強かったものの、一方で人もまたニュートン力学に従う存在ではないか、との考えもあり、これが彼の第三のアンチノミー、すなわち「自由は存在するか」という問いとして彼の主著であります純粋理性批判に掲げられることとなりました。

この問題は、脳科学の進歩した今日では、重要な意義をもちます。すなわち人間の精神的機能は人の脳内で生じる自然現象で説明され、そこには自然法則を超越した霊魂などの働きはこれまでのところ見いだされてはおりませんし、今後もおそらくは見出されないであろうと考えられるに至っております。

しかしながら一方では、自然科学を発達させたのは人間の精神的な働きであり、脳内の自然現象がそれ自身を自然現象と考えておりますことは、蛇が自らの尾を飲み込んで最後には全てを飲み込んで消えてしまうというような、腑に落ちない話のようにも感じられます。

自然法則が全てに先立つ絶対的な真理であると考えれば、人の脳もその法則にしたがって動く存在であり、人間精神もまた同じであるという結論に至るのですが、人はモノ自体を知りえず人間精神の内部に構成された外界の姿を知るだけであるといたしますと、自然法則もまた人間精神内部に構成された一つの知見に過ぎず、おかしなことは何も起こっていないように私には思われます。

このことに私がはじめて気づいたのは、お気に入りの長編マンガを何度も読んでいたときのことです。最初にマンガを読みますときは、瞬時瞬時を登場人物と共有する形で時間を追って読み進めるのですが、何回か読みますと、全体のストーリーを把握して登場人物の時間の流れの中での絡み合いや後に起こる事件を予感させる伏線など、ストーリー全体の構造が見えてまいります。更に読み進めますと、作者の作画技法に興味が向かい、最後にはマンガが紙の上のインクに過ぎないことに気づいて驚くことになります。

つまり、自然科学の論理では、マンガは紙とインクであって物語などどこにも存在しないのですが、マンガの意味は別の場所にある。自然科学の論理が全てではない、ということなのですね。

人を含むこの宇宙に存在するあらゆるものが自然法則に基づいて運動しているということは、そのとおりなのでしょう。しかしそのような知見は、人の精神の内部に構成された知見なのであって、他のさまざまな知見と並存する一つの知見に過ぎません。その他の知見の中には、とあるマンガの世界もあれば小説や映画の世界もあるでしょう。この中で自然法則の世界と同じように重要なのが人間社会であり、その中に「自由」も存在する、ということなのでしょう。

これを情報という面に注目すれば、自然界と自らの脳と人間社会という三つの主要な情報システムがあり、これらが相互に情報を交換している、とみなすことができるでしょう。自らの脳の内部には、自然界を描写するモデルが存在し、知覚の結果によりこれを常に修正しております。また、人間社会を描写するモデルも存在して、こちらもさまざまなコミュニケーションの結果を受けた更新がなされております。

カント以前には、人は自らが知りえた自然界に係わる結果を自然そのものであると考えておりました(これを自然主義的立場と呼びます。)しかし、脳科学の発達した現在では、人の知りえた結果は人の脳内に構成された世界であると考えるしかありません。これはまさにカントの言葉「人はモノ自体を知りえず、ただ表象を知るのみ」そのものであり、自然科学もまた自然主義的立場からの脱却が必要であろう、と私は考えている次第です。