これまで邪馬台国の人々に関して議論してまいりましたが、狗奴国に関しては、あまり述べておりませんでした。そこで本日は狗奴国の人々に付きまして考えてみたいと思います。
狗奴国の正体につきましては諸説あるのですが、私はこれを出雲としております。その理由は次のとおりです。
・三国志倭人条に書かれた狗奴国の位置を「奴国(灘の国)の東」と読むべきと考えていること
・巨大な人口を擁しております卑弥呼共立国連合に対抗できる国として当時の倭国には出雲くらいしかなさそうであること
・狗奴国との戦に際して卑弥呼が魏の介入を要請していることから、狗奴国の背景には半島勢力(おそらくは北方民族)があると考えられ、これに妥当すると思われる逸話に温羅伝説があり、その背景には出雲があったと考えられること
などによります。また、出雲が狗奴国と呼ばれる理由は「雲の国」から「くのくに」と呼ばれるようになったと考えれば説明が付きます。
さて、狗奴国の人々につきましては、良くわからないことが多いのが実情です。ここでは、事実であると断定する根拠は極めて乏しいのですが、私の想像している狗奴国の人々について述べてみたいと思います。
まず最初に出てまいりますのが、狗奴国の官「狗古智卑狗(クコチヒク)」です。九州説では、熊本市の北東約20kmのところに菊池なる地名がありますことから、この音に「菊池彦(キクチヒコ)」をあてる場合が多いのですが、畿内説ではそうするわけにもまいりません。
狗奴国に関する記述は魏略逸文にもあるのですが、狗奴国の官の名を「拘右智卑狗(クウチヒク)」としており、三国志倭人条にあります「古」は「右」の誤記である可能性を示唆しております。古くは、今日のo音はu音で発音されていたと考えられるのですが、これをクウチヒクに適用しますと、今日風の読みではコウチヒコ、すなわち河内彦と読むことができます。河内は今日では「カワチ」と発音されるのですが、古い資料には「カウチ」なる読みが記されており、コウチと読まれることが一般的であったものと思われます。
三世紀後半以降の河内は物部氏の本拠地となっており、物部氏が以前から河内に拠点を持っていた可能性は高いものと思われます。そうであるといたしますと河内彦は物部氏の中心的人物ではなかろうかと推察されます。
物部氏は、崇神天皇に従っており、卑弥呼共立国連合側の人物なのですが、実は出雲にも深いつながりがあります。出雲から南西に10kmほど離れたところにあります石見には巨大な物部神社があり、物部氏との深いつながりを示しております。この地は石見銀山で知られた土地であり、物部氏がこの地に拠点を構えました理由の一つに、何らかの鉱物資源が当時から見出されていたのかもしれません。また、石見は大田市にあるのですが、大田田根子との関連も気になるところです。大田田根子は、日本書紀崇神天皇6年の条に記述があり、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主」にせよとの臣下の夢の中での大物主のお告げに基づいて大田田根子を探したところ、河内の地にこれを見出しておりますことから、この女性も物部氏と何らかのつながりのある人物と考えて良いでしょう。
物部氏が大和の地において崇神天皇と行動を共にしたことが記述に現れてまいりますのは、少なくとも卑弥呼の時代ではなく、二代目女王イチ(迹迹日百襲姫と同一人物と考えております)の時代です。従いまして、卑弥呼の時代において物部氏が出雲の官であったとしても矛盾はいたしません。金属加工に長けた物部氏のことですから、出雲においても神宝管理の役職などを得ていたとしても不思議はありません。
さまざまな戦はあったのですが、北九州と出雲の間には長きに渡って交渉があったことが窺われます。崇神天皇60年に出雲の神宝を求めた際には、出雲振根は筑紫の地に出かけて留守であったとの記述があります。不彌が北九州の地において独立的な存在であった理由も、宗像大社が出雲系の勢力下にあったためであるのかもしれません。そのような状況下で、偶々どこかで魏使に物部氏(河内彦)が紹介されたとすれば、狗奴国の官として記録に残された可能性もあるのではなかろうか、と私は考えております。
物部氏がいつ出雲から卑弥呼共立国連合なり奴国なりに陣営を変えたかははっきりとはいたしませんが、狗奴国と卑弥呼共立国連合の間に大きな戦が勃発すれば、物部氏としてもいずれの陣営に属するかを真剣に考える機会となるでしょう。この戦が温羅伝説として今日に伝わったのではなかろうか、この背景には半島情勢があったのではなかろうか、と私は考えております。
当時の半島の出来事といたしまして、244年に魏の将軍毌丘倹(カンキュウケン)が高句麗に侵攻し、丸都城を落として千人を斬首しております。しかし高句麗はこれに服従せず、245年に再び魏の侵攻を招き、今度は3千人が斬首に処せられております(Wikipedia)。高句麗の敗残兵が狗奴国(出雲)に流れ込み、この難民部隊を中心とする出雲勢力と卑弥呼共立国連合との間に新たな戦が始まったのであれば、247年に倭国の載斯・烏越が帯方郡太守に狗奴国との戦について訴え出ておりますことと時間的によく整合いたします。
物部氏は、おそらくは半島からわが国に渡ってまいりました帰化人で、半島情勢も良く知る立場にあったのでしょう。そうであれば、高句麗の敗戦もわかっていたはずで、このまま出雲に属し続ければわが身が危ないと考えることも合理的であるように思います。そうであれば、出雲から奴国に乗り換え、崇神天皇を支援する形で、大和の政局に係わっていくことも、妥当な判断であるといえるでしょう。
物部氏の動きは、機を見るに敏という言葉を形にしたごとくでして、迹迹日百襲姫の向こうを張って大田田根子を巫女に推薦したりしております(自らは表に出ない形で)。これも、あわよくば自らの息のかかった巫女を三代目女王にしようとの戦略があったのではなかろうか、と私は疑っております。ここでイチ殺人事件などがあったりいたしますと、真っ先に疑われるのが物部氏なのですが、イチの死のいきさつをめぐる記紀の記述はあまりにも荒唐無稽で、実のところ何が起こったのかはさっぱりわかりません。
狗奴国の人物としてもう一人三国志倭人条に現れておりますのが、その男王「卑彌弓呼(ヒミクコ)」です。こちらは諸説あるのですがいまひとつはっきりしておりません。これに対する私の一つの考えは、「天穂日命(アメノホヒノミコト)」ではなかろうか、とするものです。
天穂日命は、出雲に国を譲るように最初に派遣された神で、使命を果たせなかったと記紀はしているのですが、そんな話は後に成立するストーリーであり、3世紀の倭国の人々が天穂日命を初代出雲王であるとみなしていたところで不思議はありません。で、ここに記述された言葉は「素不和」すなわち昔から不和であったということで、初代天穂日命の昔から不和であったというような話が魏使に伝えられたというようなことがあったのではなかろうか、と考えているわけです。天穂日命の「アメノ」の部分はそれが神であることを表示している部分で、名前は「ホヒノミコト」、これが「ヒミクコ」となりますことは、さほど飛躍はしていないでしょう。
卑弥呼共立国連合と狗奴国との仲の悪さを語るに際して「神代の昔から」などと表現いたしますことは、あまりにも誇張が過ぎるのですが、相手は白髪三千丈のお国の人、それに今よりは神代が身近であった時代でもあります。このくらいの誇張は、まあ許される範囲ではなかろうか、と私は考えております次第です。