コンテンツへスキップ

納富信留著「プラトンとの哲学/対話篇をよむ」を読む

本日は、納富信留著「プラトンとの哲学 対話篇をよむ」を読むことといたしましょう。

魂と国家と宇宙と

同書は2015年7月22日に出ました最近の書物でして、なんで今頃プラトンか、という感じがしないでもありませんが、世にプラトン研究者が存在する限り、この手の書物が出版され続けることは当然の理でもあります。

で、同書の特徴は、プラトンに話しかける形で記述がなされていることで、プラトンの書物が対話形式で書かれていることから、このような記述のあり方も不自然ではないし、雰囲気も悪くはないのですが、いまひとつシャープさに欠けるのが欠点であるとの印象を受けました。

とはいいましても、同書には面白い記述が多々あり、読んで損な感じはしないのですね。まずはその一つをご紹介いたしましょう。

以前のこのブログで、木田元氏の「ハイデガー『存在と時間』の構築」を読みました際、「同書の目からうろこの部分は、ギリシャ思想は、少なくともソクラテス・プラトン・アリストテレス以前までは、東洋思想に極めて近い思想であった、という点です」などと書いたのですが、この本にも似たような記述がありますね。

これまで言論で描いてきた理想のポリティアは、たしかに天空に存在する。それは、天体の秩序、つまり「宇宙」という自然のあり方全体を示しているのでしょう。それが現実に存在する以上、大いなる時間の射程において、人間の社会、そして一人ひとりの魂が同じ正しいあり方をすることはつねに可能なのです。私たちの魂、つまり「内なるポリティア」は、宇宙のポリティアに支えられて確かに存在します。

「魂、国家、宇宙」、これらが類比と関連の内にあるという知見は、古代から近代まで脈々とつづいた世界観です。それは西洋だけでなく、インド、中国、日本という東洋の思想にも明瞭に見られます。しかし現在、この視野はすっかり失われています。存在を成り立たせるあり方、すなわち正義が共通し、それは自然(フュシス)であって、言葉(ロゴス)において成り立っている、私たちは自然の摂理と秩序を学びながら、自身の正しいあり方を理性的に形づくっていくはずです。個人と社会が無関係に存在し、しかも自然や宇宙からすっかり切り離されているという誤った見方こそ、今日私たち人間にさまざまな危機をもたらしている原因かもしれません。

これを私風に言い換えますと、「魂、国家、宇宙」の関連のうちに世界を理解することは、プラトンだけでなく、東洋思想とも共通する、しかし今日の西洋思想の中では、この考え方が失われており、これが様々な危機の原因となっている、ということですね。そう読めば、ハイデガーの主張と同じことを語っているということになります。

これら三者が切り離されたのは、人が支配する対象として自然(宇宙)を捉え、契約関係として社会(国家)を捉えるからであり、これらを一つのものとしてとらえる東洋的な考え方から離れて行ってしまった、ともいえるでしょう。

また、「魂」が主体、主観を意味し、「国家」が社会を意味し、「宇宙」が自然なり物自体の世界を意味すると考えれば、私がかねてより考えております三つの世界とも通じることとなります。

これは面白いものを読んでしまいました。ちょっと元気づけられます。

イデアとは何か

さて、プラトンの問題は、イデアを重要視する点であるとさんざん言われております。イデアとは何か、その本質に迫っております部分を以下引用いたしましょう。

「美しい」ということが「ある」としましょう。アヤメの花や絵画では不十分です。「美しい」という事柄が、それ自体として完全に「ある」とするのです。それには、いついかなる時も、どのような観点でも、「ない」と同居することを認めてはなりません。その時、それはまさに「美しいものである」と言葉で捉えている事態そのもののはずです。それは「美しさそれ自体」とでも呼ぶべきものでしょう。

実はこの点が、プラトンの大いなる誤りなのですね。そしてその誤りが生じた理由が、西洋の言語に用いられている存在動詞(英語ではbe動詞)の多義性にあると私は考えております。

以前のこのブログで読みましたアリストテレスの「形而上学」のなかで、アリストテレスは、「白い」、「健康的である」などの形容詞と実体の存在とを区別しなければならない旨の主張を繰り返し行っております。なぜこんなことを区別することをことさらに注意しなくてはいけないのか、そう考えますとき、存在動詞の多義性に思い当たるのですね。

存在動詞(be動詞)には主に3種類の意味があります。一つは存在するという意味、もう一つは属性を表す意味、そしてもう一つがカテゴリーなり本質を表す意味です。これをごっちゃに扱いますと、属性や本質それ自体が存在するという、よくわからない状況が生じてしまいます。

とは言いましても、この区別がなかなかにむずかしい。ハイデガーが主張いたしますように、彫刻について考えることで哲学が生まれたのだと致しますと、こうなる事情も分からないではありません。

つまり、アポロンの大理石像がある。そこにあるものは何か、これを考えますと、その本質はアポロンであるともいえるのですね。この事情は今でも変わりません。コミックを読むとき、我々がそこに見出しているものは、セルロースの薄片に付着したインクであるなどということはなく、漫画の登場人物が七転八倒右往左往する姿であることは、まず間違いありません。

そこまでは良いのですが、この先となりますと、議論は二つに分かれます。

イデア論の展開

第一に、漫画の物語なりアポロンなりを見出すのは、作者がそのように意図したからである、我々がそこに見出しているのは、作者が表現を行う意図であり、作者の心の内なるものであるということはできるでしょう。では、自然界の事物はどうか、となりますとき、そこに現れているのは神の意図であるということになりますと、話は一つにまとまってしまいます。

これは宗教団体にとっては好都合な話なのですが、本当にそうでしょうか、と私などは思ってしまいます。少なくとも、世界が一つの宗教に統一されていない以上、そこに見出される物語は千差万別なのですね。このような、普遍性をもちえないものに対して「存在」などという言葉を使ってもらいたくはありません。

もう一つは、その表現が普遍性をもちえる場合で、コミックなど、誰が読んでも同じものをそこに見出すものであれば、コミックの物語はそれ自体で普遍的存在であるということもできるでしょう。これら著作物に関しては、作者の権利が認められているのですが、これが保護するのは「無体物」すなわち、彫刻作品それ自体ではなく、その表現(形状)に対する作者の権利を認めているのですね。存在しないものに対する権利などあり得ませんから、表現それ自体も存在すると考えるしかありません。

自然科学と心の両立

今日の科学技術は、人が知的能力を発揮するメカニズムに対しても理解が進んでおり、情報処理過程としてこれを理解することも、あるいはこれを人工的に作り出すことも、今や時間の問題となっております。その意味することは、人の知的能力は霊魂などという超自然的現象ではなく、ありきたりの化学反応、信号伝達過程に過ぎない、ということが明るみに出てしまうということなのですね。

そのとき、では人には何の価値もないものなのか、という疑問が起こるかもしれないのですが、化学反応なり情報処理過程なりとしての人間理解は、コミックをインクのしみとして理解しているようなもの。そこに表現された物語の豊かさこそに気づかなくてはならないということが、この彫刻のたとえは物語っております。

で、その紡ぎだす物語の作者はだれか、となりますと、これは神などではなく、その化学反応なり情報処理過程なりで成立している、当の人間であるということは、間違いのないところでしょう。

さすがに、人が心ある存在であること、考える存在であることまでは、人種宗教に関わらず、誰しもが認めるところでしょう。すなわち、この考え方は普遍性を有する、ここまではまず間違いのないところであろう、と私は考えております。