MechaAG氏は、最近茂木健一郎氏の批判を繰り返し行っておられます。ここでは、最近のエントリー「今日の茂木健一郎(2024-05-24)(2)」あたりから、この議論が混乱する理由について考えてみたいと思います。
茂木氏とペンローズ
以前のこのブログで、ペンローズ著「ペンローズの〈量子脳〉理論 ―心と意識の科学的基礎をもとめて」をご紹介しました。この本を訳されたのが竹内薫氏と茂木健一郎氏なのですね。
ペンローズの「量子脳理論」というのは、ニューロンの中に「マイクロチューブル」という量子力学的機構が存在し、ここでの波束の収縮が時間意識を生み出す、というもの。あとがきによりますと、ペンローズ氏はこの考えを撤回しておられるのですが、この考え方が一つ影響しているような感じがいたします。
脳内現象だって、最終的には量子力学的現象なのですから、その不確実性に基づくランダムネスは含まれております。だけどそれは、サイコロを振って決断を下す、まあ、占い師や、かつて我が国に君臨いたしました卑弥呼女史のやっていることと大して変わらないのですね。
意識(理性)と無意識(悟性)
コンピュータシステムで行われている情報処理には、二つの相異なる処理が含まれています。
一つは、CPUの行う逐次処理で、CPUは命令を順番に読み取り、命令内容に従った処理つまり、メモリーのデータをレジスタにロードし、レジスタのデータ相互を演算し、レジスタのデータをメモリーにストアするといった処理を逐次行うのですね。
もう一つの処理は、論理回路の組合せであるハードウエアによる処理で、周辺機器の処理や複雑な数値演算を行うコ・プロセッサの処理がこのような形で行われます。ニューラルネットワークで行われている処理は、じつはハードウエアによる処理と類似している。つまり、予め接続されたニューロンにインパルスが与えられ、出力が生じているのですね。ただし、現在の電子回路と天然ニューロンの異なる点は、ニューロンの接続状態が日々変化するということ。まあ、このあたりは、AI技術が進んで、ニューロンチップで演算するようになりますと、似たような形になるのではないかと思います。いずれにせよ、こちらは脳のあちこちで勝手に処理が行われますので、無意識の処理となります。
CPUの行っている処理と類似した処理も、人の脳の中では行われている。この処理は、脳全体がかかわる非常に複雑な処理であることが、脳の活動領域を検出するファンクショナルMRIを用いた研究で明らかになっています。なぜこれがニューラルネットワークにすぎない脳でできるのか、という点は、ちょっと不思議な気もしますが、CPUだって論理回路の組合せであり、論理回路の組合せと同じことができるニューラルネットワークなら、CPUに似た処理だってできるはずなのですね。
で、カントは、ハードウエア処理に対応する精神機能を「悟性」と呼び、CPU処理に対応する精神機能を「理性」と呼んでおります。悟性は、現在に束縛されているけれど、非常に高速な処理が可能で、複数の処理を同時にこなすこともできる。一方の理性は、複数の処理を同時に行うことは難しいし、非効率的でもあるけれど、時間の束縛を離れて、じっくりと考えることができるのですね。こちらは、意識に対応する処理です。
で、カントは悟性を重視した。まあこれは、最近のAI研究のトレンドにあっております。昔の知識データベースに基づくAIは、推論エンジンなどと呼ばれる動作をしており、これは理性に相当する。一方、最近のAIは、ディープラーニングということで、パラレルロジックを形成します。まあ、これをCPUで処理すると結局はシーケンシャル処理になるのですが、NVIDIAなどのGPUを用いて並列処理するなどということも行われるようになっているのですね。
主体と世界とのかかわり
人の精神機能に、意識的処理と無意識的な処理があると言いましても、これは、人(の脳)を対象物としてみた場合の話であって、もう一つ外側の世界を考えておかなくてはいけません。それが、「主体」というもので、「考える我(コギト)」としてデカルトが提示した概念なのですね。
世界を認識する主体は、世界について語る以前に、前提としなくてはいけない。これが、今日の論理学でいう「語用論的前提」なのですね。世界について語る主体が存在しないなら、世界について語ることはできない。すべてが意味を失ってしまいます。このような主体は、英語で言えば「essential ego(根源的自我)」、現象学者は「超越論的自我」とか「先験的自我」などと呼んでおります。ここでは一応「主体」という言葉を用いて話を進めることといたします。
実はこの「主体」に対して、「意識」という言葉をあてたくもなるのですね。つまり、主体とはおのれ自身が感じ、考える行為を通してこの世界と関わっている。それは、意識の機能そのものでもあるのですね。だけどここでの問題は、客体としての(見られる)おのれなのか、主体としての(見る)おのれなのかという問題なのですね。客体としてのおのれは、コギトとは無縁のおのれである。この点に注意しなくてはいけません。
主体にとっての「世界」は、おのれが認識した世界ではあるのですが、おのれが「外的世界」として認識した世界でもある。その認識結果がおのれの精神内部にあることは百も承知なのだけど、その認識は外的世界を描写したものであり、おのれにとっては外的世界そのものなのですね。
さらに、おのれの認識した世界の中には、おのれと似た存在である他者がおり、他者もまた似たような形で外的世界を認識していることを知っている。そしてお互いに認識した外的世界に関して、何を認識しているかに関して会話することができ、お互いの認識結果を確認し合うこともできる。こうなりますと、おのれの認識した外的世界は、おのれの精神内部の存在ではあるのだが、外的存在と同様の普遍性、確からしさを獲得するわけですね。
このあたりは、以前のブログでカントの「プロレゴーメナ」を読みました時にご紹介しております。ちょっと、カントの記述を以下に引用しておきましょう。
私が言っているのは、物は我々の外にある感官の対象としてわれわれに与えられるが、ただし、物がそれ自体としてどんなものかについてわれわれは何も知らず、ただその現象、すなわち物がわれわれの感覚を触発するときにわれわれのうちに引き起こす表象を知るだけである、ということである。
だから、私はもちろん、われわれの外に物体があること、つまり物があることを認める。……この表象に物体という名をつける。したがってこの物体という言葉は、われわれには知られないが、それにもかかわらず現実にある対象の現象を意味するだけである。人はこれを観念論と名づけることができるだろうか。いや、まさしく観念論の反対である。
そして、外的事物に関する「客観」について、以下のように述べるのですね。
そこで、客観的妥当性と〔すべての人に対する〕必然的な普遍妥当性とは相関概念である。そして、われわれは客観自体を知らないにしても、ある判断を共通妥当的、したがって必然的と見なすとき、まさしくそれによって客観的妥当性を意味しているのである。
明晰判明に真実と認識するもの
(この節以降は5/25に編集・追記)茂木氏は当初、「クオリア」を重視しておりました。これ、「質感」などとも訳されており、赤い色を見ているとき、赤い色を見ていると感じる、その感覚が存在する、という考え方なのですね。これに似た考え方は、じつは、デカルトも行っており、しかもそれがデカルトの間違いであったと、後世では考えられております。
デカルトは、全てを疑った後に、疑う自分自身の存在を否定できないものとして措定し、次いで自らの精神が明晰判明に真実と認識するものを真実と認め、さらには神の存在証明へと進みます。また、思考と実体という二つの実体を互いに異なるものとして考え、ここから人の松果体に精神が住むという、心身二元論へと論が進みます。(参考)
自らの精神が明晰判明に真実と認識するものを真実と認めるのは良いのですが、それは、外界における真実ではなく、おのれの精神、つまりは主体にとっての真実なのですね。クオリアも自らの精神が明瞭判明に認識している。だから実在するものであるとして、茂木氏は考える。でもこれは、主観世界での実在であって、外界の対象物、つまり客観的な実在ではない。カントが、人はそれを知り得ないとした、物自体の世界に属するものではないのですね。
では、正しく客観的な実在と言えるものはないのか、という問題に、フッサールは一つの解を与える。それはインター・サブジェクティビティ(独:Intersubjektivität、英:Intersubjectivity)、間主観性とか相互主観性とか訳されているものです。これは、人々に共有された主観なのですが、上のカントの引用にある「客観的妥当性と〔すべての人に対する〕必然的な普遍妥当性とは相関概念である。そして、われわれは客観自体を知らないにしても、ある判断を共通妥当的、したがって必然的と見なすとき、まさしくそれによって客観的妥当性を意味している」と同じ考え方であるように、私には思われます。
たった一つの”InterXXXX”
この「Intersubjectivity」、コンピュータの世界ではInternetに対応しているのが面白いところです。Internetは、ローカルなコンピュータネットワーク(LAN)どうしを接続した巨大なコンピュータネットワークで、当初、世界各地に組織間ネットワークが構築されていた時代には、小文字のinternetと呼ばれていたのですが、全世界のinternetが一つに結ばれた時、それは大文字のInternet、あるいはthe Netと呼ばれるようになりました。intersubjectivityも、世界の主観に共通に認識されるなら、それをIntersub-jectivityと呼んでもよいだろうし、フッサール流にこれを「客観」と再定義してもよい。まあ、カントにしたところでそれが「客観的妥当性を意味している」と言っているわけですから。
カントによって正されたデカルトの思想は、更に現象学に引き継がれ、今日の哲学界の基盤となっている、と一部の哲学者は語るのですが、一般的な世界においては、未だ外界の真実が幅を利かせている。これを「なぜか」と考えるとき、宗教が悪さをしているような印象を私は受けるのですね。宗教も個人の精神内部の存在ならよかったのですが、これを全世界を律する、たった一つの真実と考えてしまうと、大きな悲劇のもとになる。
実は、デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」に続けて言いたかったのは、「われ信ず、ゆえに神あり」だったのではないか、と私は思っているのですね。彼の論理展開なら、普通、そうなりそうなものです。でも、これでは神の存在を認めたことにはならない。「神はある種の妄想である」と言ってしまったように受け止められかねない。これは、ガリレオの地動説すら迫害された彼の時代においては非常に危険な行為と危惧される。だから筆を曲げたのではないか、というのが私の推理ですが、はたして真実やいかに、です。
カント的世界観と量子力学
量子力学は、ペンローズの量子能理論にも現れるのですが、こちらは不確定性原理に基づくランダムさに人の自由な意思の存在を認める立場ですが、単なる乱数の発生であれば、これは自由意思とはいいがたい。サイコロの目はサイコロの自由意思が出しているのではなく、ただの偶然の結果に過ぎないのですね。
で、量子力学とカント的世界観は量子力学の観測問題でも関係してまいります。観測問題というのは、量子力学的な現象(例えばβ崩壊)により放出された粒子(ベータ崩壊の場合は電子)の位置は、波動関数という形で、確率的に与えられるのですが、粒子を観測するセンサー(たとえば蛍光板)に到達すると位置が確定する。これを「波束の収縮」というのですが、放出から観測までに長時間を経過して大きく広がった波動関数であっても、観測された瞬間、瞬時に収縮が生じる。これは、光速以上の移動体の存在を否定している相対性理論に反する、ということになるのですね。
観測問題の解釈には、いくつかの流儀があります。代表的な解釈は、「コペンハーゲン解釈」と「多世界解釈」です。コペンハーゲン解釈は、多くの方は「波束が収束する」という点のみを述べているのですが、ブライアン・グリーン著「宇宙を織りなすもの(上)」は、これを次のように説明しています。
一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。この立場によれば、測定を行うそのときまで、私たちは電子がどこにあるかを知らない。そして、電子の位置を知らないという事実が、さまざまな場所に存在する可能性として電子を記述する波動関数に表現されている。しかし、電子の位置を測定したとたん、電子の位置に関するわたしたちの知識は突如として変化する。今や私たちは、電子の位置を、原理的には完全な精度で知っているのだ(不確定性原理から、電子の位置を知れば速度はまったくわからなくなるが、このことは今の議論では重要ではない)。
つまり、波動関数の表わしているものは「宇宙に関する私たちの知識」というわけで、人間はモノ自体を知らず、精神内部に現れた「表象」を知るのみであるとする、カントの考え方と一致いたします。なお、カントによれば、波動関数に限らず、外界に関するあらゆる知見が「宇宙に関する私たちの知識」であるわけですが。
もう一つの有力な解釈である「多世界解釈」は、石井茂著「ハイゼンベルクの顕微鏡」によりますと次のようになります。
これは要するに、測定のたびに「観測者」が新しく発生し、その自我が無限に連鎖していくということである。エヴェレットは、一人以上の観測者がいる場合には標準的な解釈は適切ではない、と考えた。観測によって世界の記述は少しずつずれていくが、標準的な解釈とは異なって波束は収縮せず、重ね合わせの状態が維持される。波束の収縮という概念は捨て去られ、波動関数は無数の実在する世界の重ね合わせを表しているのである。エヴェレットに始まるこの解釈の系譜を「多世界解釈」と呼ぶ。現在ではいくつも流派があるようだが、大ざっぱには、可能性のある世界の中の一つが、自分の測定に対応して存在している(そして自分もその世界にいる)ということである。
こちらも、カント流の世界観にマッチいたします。つまり、世界とは、それぞれの人が認識している世界であり、観測者の数だけ世界があるのはカントの思想に照らせば、あたり前の話なのですね。
量子力学以外にも、物理学を実際の世界認識に応用する上では、観測者が必要になる。原点を決めなくては座標が定まらないのですね。これでは、世界の数値的取り扱いは不可能になってしまいます。もちろん、それ以前に、物理法則を考えたり議論したりするのは誰かという問題もあるのですが、カント流の世界観は物理学とも折り合いの良いことはご理解いただけるのではないかと思います。
テレポートとかできるようになれ