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共感(近接性)とポピュリズム

田中奏歌氏の6/29付けアゴラ記事「東京都知事とポピュリズム」へのコメントです。


ポール・ブルーム著「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」は、私が高く評価する書物なのですが、最初に近い部分で同書の主張を次のようにまとめております。(参考

……共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感には反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

人が他人に対して共感を抱く一つの条件に「近接性(プロキシミティ)」と呼ばれるものがあり、近しい人にはより共感を抱きやすい。これは、物理的に身近である、というだけではなく、その人に関する情報を多く得ている場合に、共感を感じやすいのですね。

このエントリーでいう「メディア関係者」とは、つまりそういう人であり、その人の姿かたちや肉声の他に、プライバシーにかかわることまでテレビの視聴者は知ってしまっている。その結果、多くの場合はこれに共感を抱くのですね。まあ、共感を抱きやすい人をテレビは多く登場させる、という要素もあるのですが。

これは、テレビの普及した今に始まったものでもない。私がアムステルダムの名所(?)「アンネの家」で感じたものもそれだったのですね。そこは、ナチスの手を逃れたユダヤ人少女アンネが長らく隠れ住んでいた家なのですが、そこを訪れた人々の多くはアンネに共感し、あるいは涙する。もちろん、このような悲劇はあってはならないことだから、それを止めることを促す意味で、この涙は正しい。だけど、その中でも特にアンネに共感するのは、彼女が書いた日記を読んでいるからであり、その他の名もなき人たちの悲劇に人々は何も感じない。不公平な話なのですね。

ただ、これに文句を言っても始まらない。それが人間というものであり、そういう人間の性質を知った上で、社会制度は設計されなくてはいけないし、社会人(オトナ)は己の行動を決めていかなくてはいけない。つまりそういうことではないかな?

1 thoughts on “共感(近接性)とポピュリズム

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