以前のこのブログ「虚数時間の物理学:ローレンツ変換とミンコフスキー空間 」に、数の存在論と言いますか、数と人の認識に関するコメントを付けていただきましたので、この件につきちょっと考えてみます。
数は言葉と同様に人間精神の中の概念であるということ
この話題は、以前に「Newton別冊「虚数がよくわかる」を読む」と題して議論したこととも通じるのですが、同書の以下の記述が的を得ているでしょう。
結局、「数」というものはすべて、自然界にそのまま実在するものではなく、自然界を記述するために人間が頭の中につくった「モデル」あるいは「概念」だといえるでしょう。その意味で、数は一種の「言語」であるといえます。そして、物理学とは、「自然界に現れる法則を、数学という言語を使って描写する営みである」ということができます。
つまり、数とは、それ自体が自然界に実在するのではなく、人が自然を理解するときに頭の中で使う言語と同様の存在で、「概念」とか「モデル」などと呼ぶべきものである、ということですね。
「1」、「2」、「3」は、普通の言葉と違って見えるのですが、「いち」、「に」、「さん」と書けば、これは日本語の単語そのもので、英語の“one”、“two”、“three”に対応しているのですから、数は言葉と何ら異なる存在ではないのですね。
これを言葉ではない、純粋に数学的に書くなら、コメントにありますように、(・)、(・,・)、(・,・,・)などとすればよいのはその通りです。
空間の実在と概念
なお、いただきましたコメントでは、“・”の置かれていない場所を空白としていますが、自然数でも無限にあり、この無限は文字通り限りがないことを意味しますので、空いた部分に空白を置こうとすると無限のスペースが必要になってしまいます。空白は、あえて置く必要もありませんから、これは置かない方が良いと思います。
物理的な世界では、空間と物体が存在し、物体のない部分にも空間は広がっていると考えるのが妥当でしょう。空間は存在しないとする哲学者もおられるのですが、「騒がしい真空」などという言葉もありますように、空間にもいろいろな働きがあると考えられており、何もない空間自体も存在すると考えるしかありません。
でも、数はあくまで概念的な存在であり、空間がなければ置けないというものでもありません。
リンゴの絵は記号であるということ
小学校などで数を教える場合、皿の上にリンゴを置いた絵がよく使われるのですが、ここで使われているリンゴの絵は、通常同じ原画をコピーしたものであり、全てのリンゴが全く同じ形をしています。現実には、個々のリンゴはすべて異なっており、大きいものもあれば小さいものもある。
これが木に生っているリンゴとなりますと、まだ熟していないリンゴもあれば、虫に食われたものや、ほとんど鳥に食われてしまったものなどもあるわけで、これをどう数えるかというのはかなり難しい問題になります。
小学校の算数の時間に教わる皿に置かれたリンゴの絵は、実際のリンゴを描写したものではなく、ドットの数で自然数の値を示す、概念的な表示に用いられる記号としての意味しかありません。
実際のものを数えるのは難しいということ
加納朋子氏のミステリー「スペース」は、部屋に飾ってあったNASAの作製した宇宙地図のコピーに惑星が8個しか描かれていない「消えた惑星のなぞ」を、連山のパノラマ写真を見たことで解明しています。
もともと手先が器用なヒトだから、そういう細かい作業が好きなんでしょうね。その連山の写真があったから、宇宙地図の複製品をつくることを思いついたんじゃないかな。
とにかくそういう切り貼り作業の過程でどういうわけか ―― たぶん、ポスター用のフレームに収める都合からだと思うけど ―― 小さな惑星がひとつ、消えてしまったってわけ。目の前に現物がないから何とも言えないけど、消えたのはたぶん冥王星じゃないかしら。全惑星の中で最も小さい惑星だし、太陽から一番離れているしね。もしそうだとすれば、冥府の王様も形なしだね。
もちろんこのミステリーの出版は、奥付によりますと2004年5月28日となっており、2006年8月24日のIAU総会よりも前のことでした。じつは、このIAU総会で、冥王星は惑星の座から滑り落ちてしまったのですね。だから現在は、太陽系の惑星は8個しかないということで正しい。
この総会以前は、太陽系の惑星の数が9個であるということは常識でした。冥王星の惑星としての地位に関しては、天文学者の中にはこれを疑問視する見方もあったのですが、普通の人は、将来新たな惑星が発見されて惑星の数が増えることはあるかもしれないけれど、まさか冥王星が惑星の地位を失うなどということは思ってもみなかったのでしょう。
太陽系の惑星の数という、きわめてはっきりしているように思われる数でさえ、その数え方の基準は社会的な合意によって定められており、観測データが積み重なることによって基準が変わってしまうこともあります。遠方の天体の性質など、今日でもわかっていないことは多々あるのですね。
一方で、数学的な自然数という概念は、自然界の実在を離れて、純粋に人間精神が生み出したものですから、ひとたび定義を決めればそれに従えば良いという違いがあります。
このミステリーのなぞ
ところで、このミステリーの表題の背景にもなっている『謎』の足元が揺らいでしまいました。先々同書を増版するような場合、一体どうしたらよいのでしょうね。他人事ながら気になります。
ちなみに、私が何故にこのシリーズを読んでいるかと言いますと、昔の上司にこういわれたからです。
娘の書いたミステリーに、君の名前を使わせてもらったよ。犯人じゃなくて探偵役だからよいだろ?
加納朋子氏、どうやら私が上司(加納朋子氏の父親)に出した年賀状の差出人をみて登場人物の名前を付けたようなのですね。でもこんなことを言われてしまうと、犯人でなくても気になりますよね。だから結局、このシリーズは全部読む羽目に。
全体を通しての感想をいえば、なんか片思いされているような、こそばゆい気が、、、 もちろん、加納朋子氏は、私のことなど何も知らないはずなのですが。
yuzo_seo様
この度は、当方のまとまりのない離散的とも形容できるコメントに対し、このようなご意見をいただきまして恐縮致しております。ありがとうございます。
当方の拙いコメントのせいで yuzo_seo様に誤解を与えてしまったみたいなので、それについてコメントさせていただきます。
>“・”の置かれていない場所を空白としていますが
>数はあくまで概念的な存在であり、空間がなければ置けないというものでもありません。
についてですが、当方のコメントにある
★「 」以後この「」内の状態を、数等を考えていない状態とします。
の「」内は、物理的な空間ではなく、人が目の前にある風景をただ漠然と眺めている【数や演算を考えていない脳内の状態】という事を言いたかったのです。
数というものは yuzo_seo様のご指摘にあるように、物理的な能動とは違う、人が概念と呼ぶ世界に、PCのメモリのような雰囲気で記憶されているもののような気がします。
当方がコメントで表現したかったのは、古代の人による、数・たし算・ひき算という概念が形成された過程を脳内の【状態変化】という能動的視点に立って考査してみた時に、形成された全体の過程ではなく結果という部分的な側面しか表現されていない、そしてその事が原因で負数や虚数というものを自明なものでなく定義としてしか認識する事が出来ない状態が続いているのではないかという事です。
普通の時間経過という意味で、1が生成された過程を考えてみます。
生成される前の脳の状態を〇、生成後の脳の状態を●とします。
〇→● となります。本当はもっと脳内の部分的な状態として表現したいのですが、コメント使用許容文字で代替えさせていただきます。
上の過程で、〇という状態が無くなり●という状態が出現しています。
数学的概念で表現すれば、-〇→+● となります。
この形成過程で、+● と -〇 は能動的な過程としては分離できません。
しかし現在の自然数の公理では、1は無定義用語として、とにかく存在するという事になっています。こういう現状に、末綱恕一さんが、とにかく自然数の存在を措定しなければ議論ができないから・・・みたいな評を記述していました。
現在の数学は、とにかく自然数1が在るを基本にしています。-〇については何等考慮されている気配が感じられません。
ひき算についても同様です。2-1=1→●●-●=● について
脳内の演算過程として考えると、●● の一つの●の状態が数を考えない状態の〇に変化して、●●→●〇とならなければいけないのに、-1は+〇については何等考慮されていません。
まとめると、
+1 は -〇 を表現していない部分的な概念。
-1 は +〇 を表現していない部分的な概念。
という事になります。
文が長くなりましたので以降簡略的に・・・
たし算・ひき算は数概念が同一のもの同士の演算
かけ算は脳内での数概念の重ね合わせによる演算(数概念相違OK)
この(数概念相違OK)によって、+〇の世界であらたに生成した1による
1×1=1は、●世界にとっては√-1になります。逆もいえます。
図で表現すればもっと印象的に説明できるのですが、解りにくい説明で申し訳ありません。
佐藤
佐藤様
数の認識が脳内でどのようになされているかという問題は、かなり難しい問題であるように思います。
一般的な数は、言語と同様の概念として認識しており、この概念に数学的な知識が結びついているため、さまざまな演算が可能となります。これは、言語世界、論理世界での話ということになります。
概念化を伴わない数の認識は、一つ、二つ、三つまでと言われており、それ以上は「たくさん」とみなされてしまいます。
これは、数という概念をもたない、未開人の数の認識で言われていることですが、文明国の人も、物事を理解する上で三つの要素に絞ることが多く行われております。たとえば、栄養の三要素、などですね。他人に何かを説明するときは、ポイントを三つに絞って話すと、理解されやすいということですね。
負の数については、以前、多値論理を調べていた時、面白い話に出合いました。三進法では正の数と負の数を統一的に扱うことができる、というのですね。
三進法は、1の桁、3の桁、9の桁、というように、それぞれの桁が3の冪(1に3を何回掛けるか)となっているのですが、各桁の数字を「+」、「-」、「0」として、「+」が書かれている桁の値を足し、「-」が書かれている桁の値を引くという規則で値を表すことができます。つまり、「+」は1という値を「+-」は3引く1で2という値を表すという約束にします。
このように数値を表した場合、最上位の桁がマイナスであればそれは負数ということになります。また、符号を反転することも「+」と「-」を入れ替えるだけで簡単に行なうことができます。
三進法は、二進法に比べて、同じ大きさの数値を表すために必要な桁数が少なくて済みますので、高速演算が可能になるのではと考えられ、一時は研究もされたことがあるのですが、現在ではこの可能性はあきらめられております。
また、論理演算に際して「真」「偽」の他に「不明」という状態をとり得ることから、いろいろと面白い応用も考えられ、データベースに関連していろいろと検討されたこともあります。
つまり、人工知能などに問い合わせたとき、「わかりません」という回答もあり得るわけで、これを論理演算で出力しようと思えば、「不明」という状態も扱う必要があるからです。
まあでも、この世界は今ではマイナーな話題であり、趣味の世界といってもよいようなはなしです。
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3/18追記:ところで、三値論理は数学的お遊びと考えられるかもしれませんが、量子力学の世界ではマイナスの粒子数というものがあります。つまり、反粒子の粒子の数をマイナスに数えるのですね。
反粒子の存在に関しては、もともとの空間に粒子が満たされていると考え、そこから粒子を一つ取り去った穴が反粒子である、という考え方もあります。あるべき粒子の欠如が反粒子であるなら、反粒子の数はマイナスに数えるべき、というわけです。
これに似た存在に、半導体における正孔(ホール)があります。半導体中には、自由に電子が動き回るN型の半導体と、正孔が動き回るP型の半導体があります。そしてこの正孔とは何かといえば、半導体を構成する結晶の電子の欠如なのですね。だから、正孔と電子が出会えば、両方とも消えてしまいます。
皿の上のリンゴにも反リンゴという考え方を導入すれば、皿の上のリンゴの数を正にも負にもすることができます。つまり、反リンゴが二つ乗っている皿の上のリンゴの数は-2といたします。そして、リンゴと反リンゴが同時に皿に乗っていたら、これらを共に取り除くこと。リンゴの欠如とリンゴが合わさって、何もない状態がそこに生まれることとすればよいのですね。
これを小学生にもわかりやすく説明するには、皿を表す白い厚手の台紙からリンゴ型のパーツを抜き出すことができるような道具を準備すればよいでしょう。抜き出したリンゴ型のパーツの裏側はリンゴの赤色に着色してある。そして抜き出された穴の底は、赤の反対色である緑色に塗られている。
こうしておきますと、なにも載っていない皿からもリンゴを取り出すことができる。そして、あとにはリンゴが取り出された穴が残る、というわけです。
これにリンゴを加える場合は、穴があるならそこにリンゴをはめ込む。この時、裏の白い側が見えるようにはめ込むのですね。そうすれば、リンゴと反リンゴは互いに打ち消し合って 1 + (-1) = 0 となることが小学生にもわかりやすい。
まあ、そうすることにどれほどの意味があるかは、ちょっとわかりかねますが、、、
以上、蛇足的ご説明でした。