コンテンツへスキップ

信頼と排除の論理―匿名社会におけるブランド効果―

な~んて、またまた論文の題名みたく書いちゃいましたけど、これ、私の論文(悲しきネットを参照)に欠けていた点ですね。

つまり、相手の正体を知ることが出来ない匿名的な社会関係において、意味を持つのは、メッセージの普遍的な意味・内容であって、受信者はもちろんのこと、発信者の個人的事情は無視される、なんてことを基調に書いたんですけど、昨日の日記で紹介した視点を入れると、論文、もう一つ深みが出そうな気もします。

つまり、あの研究で、ネットワーク上のコミュニケーションの場に、常連と呼ばれる人たちが見出されていたのですね。で、常連と新参者の間で、いろいろなトラブルが起こる、なんてことも、、、

ネット社会は匿名的関係で成り立っておりまして、ほとんど意味を認めがたいメッセージも多々出てくるのですが、この常連達、各々のハンドルをブランドとして、その評価を確立しているのですね。だから、常連達の発言、それなりの重きを持って受け止められる。

一方で、常連達の論戦は極めて激しく、しつこいものになるのですが、常連達、己のハンドルのブランド価値を自覚してるはずで、その価値を損ねかねない批判に対して、全力で反論する、と、、、で、反論されたほうの常連も、本気で応戦するわけですね。

マーケットも開かれた社会であるわけで、新興企業、商売がしにくい。そりゃ、物がよければ、あるいは、安ければ売れるかもしれないけど、同じであれば消費者、自分の知っているブランドのものを買うはず。企業はブランドを確立するために、巨額の宣伝費を使って、テレビCMなんかを流すわけですね。

でも、そのブランドイメージ、一瞬にして壊れる。雪印の牛乳、「俺は寝ていないんだ」の一言で崩れ落ちました。欠陥を隠して、大型車のタイヤ直撃で主婦を殺した三菱自動車、これから一体どうなるのでしょうか。ここ、前にも、リコール隠し、してたんですねえ。今、自動車を買うとして、果たして三菱自動車、選ぶ人いるのでしょうか?

匿名社会において、一番モノをいうのは、ブランドを手がかりにした信頼感、知られたブランド(や、ハンドル)を持つ者は、もはや匿名ではない。で、それから村落的共同体の論理に移行するわけですね。つまり、排除の論理。

村落共同体、お互いを良く知っていて、よほどのことがなければ互いを認め、助け合う。でも、おきてに背く奴は排除する。みんなと同じにしろといって、駄目なら、村八分とか、、、

ブランドも、匿名社会のルール(法律とか普遍的な信義則)に従っていれば支持される。つまり、何もなければ選んでもらえるわけですね。しかし、一旦それを外れると、あるいは、期待に背くと、消費者そっぽを向く。ブランドが付いているだけに、拒絶するときは、簡単に拒絶できるんですね。

なかなか面白い包含関係になっているんですね、これ。今度、きっちりと論文を見直してやろう。