Blogos記事へのコメントで「寛容の原則」について言及しましたので、これについて少しだけ解説しておきます。
コミュニケーションにおける寛容の原理
寛容の原則(原理)は、一般にコミュニケーションの世界で多く語られており、たとえばはてなの「寛容の原理」によれば以下のようになります。
principle of charity.
分析哲学者ドナルド・デイヴィドソンの打ち出した考え。
未知の言語を話す相手の発言を理解するためには、その発言を真と考えなければならない、とする。
また、相手とこちらの信念がおおよそ共通している考えなければならない、とする。
「寛容は強いられている」
転じて、議論しあう相手の発言をできるだけ、合理的なものとして解釈する必要があると言う原理
つまりは、言葉を理解する際には、発言者の意図を理解するように努めなくてはならないという意味で、わざわざ曲解するような聞き方をしていたのでは、コミュニケーションは成り立たちません。
国会やネットでの議論を見ておりますと、寛容原理どこ吹く風的な議論も多々見られるのですが、これは聴き方が悪いとしか言いようがありません。まあ、こんな議論には付き合わないのが一番でしょう。
論理学における寛容の原則
論理学における寛容の原理は、少々難しい概念です。
たとえば、コトバンク(元はブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)によりますと、以下のようになります。
規約性の原理 principle of conventionalityとも呼ばれ,いかなる表現形式であろうとも,その哲学的解釈はさておき,それらの形式を使用する十分な論理的規則が与えられていさえすれば,それらを容認するという,R.カルナップの論理的,哲学的根本的立場を表明するもの。これは規則の選択によって複数の論理学が存在しうることに伴うそれらの評価の問題,論理実証主義における命題の検証可能性 verifiabilityや命題自体の存在性に関する難点を解消することをねらっている。
わかりますでしょうか? 実は私にもさっぱりわかりません。
まあ、ユークリッド幾何学の世界では、ユークリッドの公準を認めたうえで、証明が正しいかどうかを議論すればよい、ということでしょう。ユークリッド幾何学の世界で、じつはこの空間は曲がっているからユークリッドの公準は無意味だ、などといっても始まらないということでしょう。厳密にいえば、もう少し違うのかもしれませんが。
二値論理と寛容の原則
寛容の原則は、二値論理の世界では、もっと簡単に言い表すことができます。つまり、偽であるといえないなら、それは真であるとして扱いましょう、ということですね。
裁判における推定無罪と同じ考え方であるといえばわかりやすいでしょうか。
二値論理では、真と偽の、二つの状態しかとりえません。
物事を、真か偽か、有罪か無罪かの二つに一つとしなくちゃいけないなら、いずれとも判別がつかない命題に関しては、さしあたり真(なり、無罪)としておくしかない、という事情によるものでしょう。
この場合の「真」とは、「偽であるとは言えない」という、弱い意味での「真」なのですが、「真」か「偽」の二つに一つを選べと言われている以上、致し方ありません。
これにつきましては、このブログでも以前「三浦俊彦著『論理学入門』を読む」というエントリーで寛容の原則について扱っております。その部分を再録しますと以下のようになります。
少々判り難いのが、⊃(含意演算子「ならば」)でして、計算機プログラムにおきます論理演算では使用しておりません。これについて、少々みていくことにいたしましょう。
ここで、眉が釣り上がりそうな記述が出てまいります。「発言者の言葉がはっきり偽と言えない時にはなるべく真となるように解釈してやるべし」という「寛容の法則」というものが出てまいります。
これは、⊃(含意演算子「ならば」)に関係する話でして、P⊃Q(PならばQである)の論理値は、PとQの論理値(真: T、偽; F)の組み合わせに対して次のように変化する、というのですね
P: T, Q: T →P⊃Q: T、P: T, Q: F →P⊃Q: F、P: F, Q: T →P⊃Q: T、P: F, Q: F →P⊃Q: T、
これはもちろん定義であるからこれでよいのですが、「寛容の原則」故にそうである、というのはなんとなくだまされたような気がいたします。まあ、「⊃」を「ならばが成立しないとはいえない」、という命題であると考えるなら、確かに寛容の原則に従っている、ともいえるのですが、、、
そして、この寛容の原則が大いに納得できる例として、以前バスで見かけた光景について言及いたしました。
そういえば、以前バスの中で「この扉は終点以外では開きません」と書かれた扉が終点で開かないことに文句を言っている乗客を見たことがあります。もちろん、この扉、終点で開くなどということはどこにも書かれておりませんので、この文句は筋違いです。終点以外で開いたら、そのときはじめて文句を言うべきところでしょう。
これを記号論理で書き表せば、扉に書かれております文言は、「(終点以外である)⊃(扉は開かない)」となりまして、この式が偽となる、すなわち乗客が文句を言えるのは(終点以外で扉が開いた)場合のみです。したがってそれ以外のケースでは、全て真、すなわち扉に書かれた言葉に反する事態は生じておらず、乗客はバスの運転手に文句をいえない、ということになります。
まあ、この乗客、少々寛容性に欠けていた、というわけですね。「寛容の原則」、ここは納得することといたしましょう。
多値論理という解
真偽不明を真とするというやり方は、少々解せないものがあるのですが、あらゆる命題を「真」と「偽」のいずれかにする二値論理の世界では、これはやむを得ないことです。それが嫌なら、二値論理を諦めて多値論理を採用するしかありません。
実際問題として、今日の論理学は、二値論理をベースとしているのですが、人間の考え方は、必ずしも二値論理ではない。「真偽不明」という状態は、人間の認識では普通にあり得ることなのですね。そうであるなら、本当は、「真」と「偽」の他に「真偽不明」を含む三値論理をメインとしなくてはいけませんし、真偽不明の中にも、「相当に真らしい」とか「ほとんど偽」といった状態を含ませますと、これはさらに多数の状態を含む多値論理を考えなくてはいけないことになります。
多値論理に関しては、このブログでも以前ご紹介しましたが、20世紀の初頭から種々研究されております。その後、多値論理によく似たファジー論理なども研究され、一時は制御の世界でも話題になっております。
今日ではAIということで、ニューラルネットワークの研究が盛んなのですが、ニューロンの動作もファジー論理回路に近く、あるいは、将来多値論理が再び脚光を浴びる可能性もあるのではないかと考えています。
そもそも、人の考え方自体が多値論理に依拠しているのであって、これをシミュレートしようとすれば多値論理も避けては通れないはずです。この分野は、将来が楽しみな領域の一つであります。
2018.11.26追記:無知の知、すなわち、人はおのれが知らないということを知らなくてはならない、ということは、かのソクラテスも語っております。
知らないということ自体が、一つの情報ではあります。そういう意味では、少なくとも三値論理は、人の知性を機械で実現する際に、検討すべき選択肢となりそうです。