さて、文化の対立、一番深刻なのが宗教の問題です。
で、この宗教という奴、一見、自然科学と矛盾する部分が多い。たとえば、ヒトの意識はニューラルネットのなせる業である、なんていうと、霊魂の存在を否定する、とんでもなく、罰当たりな奴だと思われてしまいます。でも、ヒトの心の働きに、超自然的な作用を前提としなくても、それでもやはりココロはある、といえるのですね。
それに気が付いたのが、漫画を深く読んでいたとき、手塚治虫のW3だったのですけど、コレはたまたまでしょう。
で、何に気が付いたかというと、漫画は紙の上に乗ったインクに過ぎないということ、それにもかかわらず、漫画の中には、広大な物語があるのですね。物理的実体と価値、これは、分けて考えなくちゃいけない、のですね。
そのうちに、著作権法などを詳しく勉強するようになると、このような知的財産、無体物に対する所有権である、なんて言うのですね。
無体物、つまり、本などの形のあるものに対して、そこに書かれた物語、形がない。たまたま本という有体物に「固定」されているのですけど、それを読んで放送すれば物語は電波の形で伝わる、パソコンに打ち込めば電子的な記録に形を変えるのですね。でも、どんな形になったところで、同じ物語に変わりはないんですね。
さて、ヒトの価値というものも、肉体の部分にあるのではない、ま、その部分に高い価値のあるヒト達も、いないわけじゃありません。でも、多くのヒトの場合、精神的活動の部分にその人の価値はあるのですね。で、その価値の根源、ヒトの精神というものは、漫画の物語と同じ、無体物なんですね。つまり、さしあたりココロは肉体という有体物に固定されている。でも、その人の精神、肉体を離れて流通しえるのですね。
昨日の日記に書きましたけど、社会は一つの考える装置なんですね。で、その中のニューロンに相当するのが個人であるわけです。個人の精神活動、多い少ないはあるのでしょうが、何らかの形で他のヒト達、異なるニューロンにインパルスを伝えているのですね。その働きの中に、多かれ少なかれ、その人の精神が伝達されるわけです。
こういった考え方、実は、イエスキリストご本人や、その周りのヒト達、つまり、原始キリスト教の考え方に近いのではないか、と考えられています。でも、今の教会の教えとはずいぶん違いますね。
現在のキリスト教の教え、実のところ、2千年の時の流れに変質している。宗教は布教が命、ならば、教えやすく、わかりやすく、時には脅しも必要、なんて考えたのかどうかは知りませんけど、姿を変えてきているのですね。おそらくは、モハメッドの教えもそうなのでしょう。
宗教といえども組織が扱うもの、組織が大きくなると話が細かくなります。官僚組織の常として、意識は細部に向かい、本質は忘れ去られるのですね。で、かつての宗教指導者が(片手間に?)行っていた仲裁や生活相談、これ、時代的背景を強く受けているにもかかわらず、絶対的な規範に。
たとえばイスラムの豚肉を食っちゃならんという規範、これは、当時としてはきわめて妥当な教えだったのですね。その昔、豚は人糞を餌に育てられていた。だから、ヒトの病気が伝染する。そんな不潔な食物、摂っちゃならぬと教えるのは、きわめて合理的です。でも今は、豚、人糞などで育てちゃいない。だからこの教えは通用しないのですね。
うわ~!! また長くなりました。この続きは、また今度、ということで、、、