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マルクスの「類性」と唯物論

マルクスは、初期の著作「経済学、哲学草稿」の中で「類性(最近の用語では「類的本質」)からの疎外」という言葉を多用します。この「疎外」という言葉は、その後広く使われるのですが、一般的に使われる意味とマルクスが同書の中で伝えんとした意味とは、微妙に異なるように思われます。

普通に「疎外」といえば、社会や集団から押し出されて孤独になるというような意味。一般的な状況としては、都会的な人間関係の中で、農村的な共同体の親密な人間関係が失われ、孤独になる。そんな文脈で使われることが多いようです。

経哲草稿の「類性からの疎外」という言葉は、人間が本来持っている性質をまっとうできない、その性質に反した行為を強制される、といった状況を指しています。

まあ、この類性、というのは、人間性といっても良いのかもしれませんけど、そんな博愛主義的な言葉ではなく、もっと、ヒトという種が本来的に持つ性質、本能に近い意味を持つ言葉なのですね。

ま、経哲草稿でこの言葉が出てくるのは、市場経済においては、労働者同士の競争により、頑張れば頑張るほど、他の労働者を傷つける、本来同士である労働者が、経済的には敵対関係になってしまう、という部分で使われています。

でもこの類性を全うさせる、という目標、これをマルクスは当然のこととして扱っているのですが、唯物論の倫理感にも、同様な考えが基礎にあるように思われます。

かつてソ連において、高い評価を得た学者がパブロフ、条件反射を発見したヒトですね。唯物論によれば、ヒトも外界の刺激に反応する機械。これを実証したのですね。

もちろん、機械だからどう扱っても構わない、ということにはなりません。類性を全うさせなくてはならない、という規範は基盤にあるわけですね。それがないと、共産党の一党支配も正当化できませんから。で、その規範、食欲などの物質的な満足を与えることが目標となります。

まあ、ヒトの精神、唯物論者の考え方は、自然科学的に正しいといえるでしょう。また、政治の目的、ヒトが本来持つ性質を満足させなくてはならないというのも正しい。でも、その考える機械の上に生まれた豊かな物語、この部分を軽視したことは頂けない。

ヒトや社会を、外界の刺激に反応するブラックボックスとみなす考え方は、社会学におけるシステム論として、広がりを持っています。このような研究、社会を動かすためには必要だと思うのですね。でもこのような立場、社会を外から見た立場です。唯物論者の立場に近い。

もう一つの立場が現象学的社会学に代表される、社会を中から考える社会学。これ、どちらかといえば日の当たらない世界のように思えるのですが、これからの世界、その中に住むヒトの視点で社会を見直す必要があるんじゃないかと思うのですね。システム論は、お金儲けには役立つかもしれないけど、、、