ノイズというもの、一般には嫌われ者なのですが、コミュニケーションを研究する人間には、ノイズと呼ばれるような書き込みも、貴重な存在です。あ、でもこれを議論する前に、ノイズとは何か、ということを、きちんと押えておかなくてはいけませんね。
ノイズとシグナルの比率をSN比といいまして、これがあまり悪いと受信側が信号を受け取れない。で、受信側、何がノイズで何がシグナルであるのかを判断できるのですが、これは、送り手の意図を受け手が推察して、送るはずはないであろう部分をノイズと判断するのですね。
最近のねぎまで、最初の方で画面が乱れていたのですが、これを見て、電波状態が悪いのか、放送局側の設備になんらかの異常が生じているのか、と私は思っていたのですね。ところがしばらくしてわかったことは、過去の回想シーンを、画面を乱して表現していた。ふーむ、この画面の乱れ、ノイズかと思っていたけど、シグナルだったのね、と判断が変わる。
昔の映画で、映写技師の悩みの種はフイルムを送る部分に絡むごみ、でして、これが光を遮ると、ごみの大きな映像がスクリーンに映ってしまいます。で、これを逆手に取ったアニメが大昔あったそうで、スクリーンに「ごみ」が出てくるのですが、実はこれ、作品の一部でして、しばらくたつと登場人物とこの「ごみ」の絡み合いが始まる。このアニメ、大いに映写技師を悩ませた、ということです。作品名を忘れたのが残念。
ノイズと信号の関係、腐敗と発酵の関係に似ていますね。腐敗というのは物が腐ること。生ものがまずくなる、臭気を発する、食べてしまうと食中毒になったりと、ろくなことがない。一方の発酵は、納豆やチーズ、お酒を造ったりと、我々の食生活には欠かせない現象です。
でも腐敗と発酵、まったく同じ現象であるということなのですね。で、我々の役に立つのが発酵で、害があるのが腐敗だと。なんか、害虫と益虫の区別みたいな、ご都合主義的というか、自己中心的な定義ですね。
閑話休題(それはさておき)ノイズとシグナルの関係も、受け手にとって有益ならシグナル、邪魔であればノイズ、ということでして、ノイズの定義は受け手の自己中心的な判断によります。
だからたとえばヤフーファイナンスのライブドアの板、えらくノイズが多いのですが、何がノイズかは、読む人の立場によって全然変わる。
この原因は、ホリエモン、人によって好き嫌いがはっきりと二つに分かれるためでして、ホリエモンを嫌いな人から見ると、ライブドアを応援するカキコは「信者のたわごと」でしかなく、ライブドアを応援する人たちから見れば、批判的カキコは、ただの悪口、罵詈雑言。
で、なんでこんなことを書く気になったかというと、このブログについておりますコメント、最近、意味不明なコメントが時々出てくるようになったからです。
まあ、この日記も、それを書いた方の目に触れるであろうことを考えると気が重いのですが、このブログの本来の趣旨はコミュニケーションの研究でして、最近相場ばかり読んでますのははっきり言って、本来の趣旨を逸脱しているのですね。ま、それはそれで良いのですが。
で、コミュニケーションを研究する立場から見ると、この手の意味不明なメッセージ、きちんと分析しておかなくちゃ気が済みません。
同様な分析は、「悲しきネット」から、「匿名投稿の実態」をクリックしていただくと読むことができるページに書いているのですが、意味不明なメッセージの意味を読み解く、なんてこともできないわけじゃないのですね。
で、今回の、ハテナなコメントですけど、コメント自体は全然不思議じゃない。でも、変なURLが付いているのですね。それも、何行も。で、異なる名前の人が同じパターンのコメントを書いてくる。いかにも、「謎」でしょう。
メッセージのパターンの分析、同じくホームページから読めるミステリ、「ノーボディーが知っている」でも使いましたけど、メッセージ分析の一つの手法、プラウダの論文を分析してソ連の政治体制の変化を探る、なんてのにも使われた技法です。
で、この「謎」に対する私の見解は、以下の通りです。間違っていたら直していただけると嬉しい。
まず、これらのコメントは、名前は様々ですけど、一人の方が書かれている。第二に、この方、何らかの問題を抱えています。
この問題の解決を難しくしているのは、コミュニケーションの仕方がわからないから。でも、コミュニケーション、さほど難しいことではないのですね。
少なくとも、コメントが付けられるのなら、既にルビコン川を渡っている。発信可能。あとは、内容です。まあ、少々判りにくい内容であっても分析はできますから、もう少し踏み込んだコメントがいただけると、私としてはとっても嬉しいのですね。
ありゃりゃ、、、またしても話が変な方に行ってしまいましたけど、要するに、ネットのコミュニケーション、ノイズもまた良し、ということなのです。
この世の中、無駄なものなんて一つもありません。どんなものにも、それなりの、存在理由があるのですね。
本日のテレビで見かけた面白い会話。これも、コミュニケーションの問題、ではある。
和田アキ子:ところでアナタ、コミュニケーション、ちゃんととれている?
あびる優:だいじょうぶぅ
これ、無意味な質問ですね。ひょっとして、和田アキ子、あびる優以上のボケタレかも、、、
これで、思い出したのが昔の体育教師の話。「おーい、みんな、俺の話、聞こえてるか?」と生徒に問うが反応なく、一計を案じ「俺の話が聞こえない人、手を上げて」と言う。後の方で数人の生徒が手を上げたのを見て、この教師、こう言ったのですね。「なんだ、聞こえているじゃないか」。ま、素直に手を上げる生徒も間が抜けてるが、、、
これとはちょっと違うのですが、やはり学校での似た話。地理の授業で、教師が取り出した世界地図は、ぼろぼろ。でも表題には「最新世界地図」。もちろんこの地図、作られたときには最新版だったのでしょう。でも古くなっちゃった。今でも世界地図を見ると、「最新」と書いてある奴が多いのですね。不思議ですね。
ソフトウエアの世界でも、プログラムのファイル名に「最新版」と付けたがる人、特に初心者に多い。これは地図の表題以上に危険な行為です。もちろん、これ、あとで、どれが本物の最新版だか、分からなくなるのですね。