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ニューロンとワイヤーって???

この表題にある「ニューロンとワイヤー」について、あるボードで御質問を頂きました。そのボードでは簡単にお答えしたのですが、今回は、この点について議論してみましょう。

まず答えから言ってしまうと、ニューロンは脳細胞、ワイヤーは電線で、ネットを含む人と人とのコミュニケーションを象徴的に表現したものです。この両者、似ているのですね。

ネットで結ばれた人々は、脳細胞と同じ働きをしている、全人類が一つの知能として機能している、で、この知能、現在、精神分裂を病んでいる、などと、そのボードには書いてしまいましたが、これにはちょっと説明が要りますね。これを含めて以下議論することにいたしましょう。

まず、この問題に対して最初に疑問を持ったのは、「我思う故に我あり」の怪しさ。これに関しては、別のブログに書いた記事、ちょっと長いけど以下に転載いたしましょう。


我思う故に我あり、って絶対的真理のようにも思えるが


デカルトが、その著書「方法論序説」の中に記したこの言葉、判りやすく言えば、全ての存在を疑ったとしても、疑っている自分自身の存在は否定できない、ということ。

なんかコレ、絶対的真実みたいな響きがありますね。

でもこの言葉がなんとなくインチキくさいのは、デカルト、本などを書いているから。本の存在、読者の存在を信じるが故に、本を書いているのですね。

それから、これを読んでいる人にとって、否定できないのは、一体誰の存在でしょう。読者である自分なのか、デカルトなのか、そんなことが書いてある、本の存在、なのか、、、

疑う我、その主体は誰なのか、普通に考えれば、デカルトという個人なのですが、ことはそれほど単純ではありません。

まず、デカルトは、周囲の人々と交流する過程で、このような問題を考えている。「我」、「疑う」、「存在する」なんて言葉、デカルトが発明した言葉ではないのですね。

人類がその長い歴史の過程で生み出してきた言葉、その言葉に付随する概念、こういったものを、デカルトは、彼が受けた教育や周りのヒトとの議論する過程で徐々に身に着けていったはずです。

また、デカルトがついに結論に至って生み出した言葉、「エゴ・コギト・エルゴ・スム」、コレ、訳せば「我思う故に我あり」なんですけど、この呪文、本に書いて発表している。これは、自らが生み出した学問上の成果を、他の人々に伝えたいと考えているから。

つまり、この言葉を生み出した主体は、確かにデカルトその人ではあるのですが、彼を取り巻く人間社会の思考の成果であるともいえるのですね。

結局の所「思う我」は、この言葉を理解した全てのヒト、それぞれのヒトが独立に、自らの存在を否定できない、と考えるわけです。この概念、最初に生み出されたときは、デカルトの主観であったのですが、本が出され、読まれる、あるいは他の人々と議論される過程を通じて、デカルト個人の主観であるだけでなく、他の人の主観とも共通する概念になったのです。

ヒトが思考能力を身に付けるのは、成長過程で、他者とのコミュニケーションがなされたから、学問的思考が出来るのは、教育なり研究なりの、過去の人たちの知恵を学んだから、そして、思考の過程でも、恐らくは、他者との無数の議論がなされたはずですね。

だから、考えるという行為、特に学問的、真理の追求を目的とするなら、決して個人的行為ではありえない。社会が考えている、その成果、というわけですね。そう考えると、この言葉、出版されたのも、うなづける話。社会が思考したなら、その結果、社会に共有されなくちゃいけない。それがない限り、個人の妄想であり、社会的が認識したとはいえません。

ここで「社会が認識」とあえて書きましたけど、「社会が認知」と書けば、違和感ないですね。

我々が考えるというとき、その行為は、生い立ちからして、決して個人的な行為ではない。そして、考えた成果を、何がしかの大きさの社会に認知させるなら、それも社会的行為。結局の所、何が真理であるかなんてことは、社会の大多数のヒトが認めるか否かが問題、真理の探究などという知的作業は、社会の思考のプロセスであるともいえるのですね。

さて、真理を支える社会、いろいろな社会がありえます。ある考え方が、社会の中でも一番大きな、人類全体に認められたとき、それは普遍的な定説ということになるのでしょう。さしあたり、科学の方法論が目指すのはその方向。

国際政治の分野では、必ずしも普遍性、尊重されていないのが、ちょっと寂しいですね。

ニューロンとワイヤ、単なるアナロジーではありません。

人が考えるということは、ニューロンの複雑な情報処理過程であって、そこに何らかの超自然的存在を期待する人たちは多いのですが、これまでの研究では、そういったものは何も見出されていません。つまり、物理的に存在するのは、50億から数百億のニューロンの複雑な(各数千の)絡み合い、それが心を実現している、というわけです。

地上の人類の総数は50億、ニューロンの数とほぼ同様でして、人々が日々受け取る情報の発信元は、恐らく数千以上。この数は多いようにも見えますが、日々に受け取る電話や会話、ネットの記事、新聞雑誌の記事の数と、発信した情報を受け取る人の数これらを合計すれば、恐らく千は超えていると思いますよ。人類と大脳、似た存在なのですね。

もちろん、これらの間には大きな違いがあります。脳の構成要素は単純なニューロンであるのに対し、人類の構成要素は人間、その一つ一つに脳があるのですね。つまり、階層構造なのですね。

もう一つの大きな違いは、人は、正常であれば、様々な葛藤に悩まされることはあっても、右手と左手で喧嘩を始める、なんてことはないのに対し、人類はまさにそれをやるのですね。人類全体という思考機構、ヒトでいえば精神分裂状態にある。それが大きな不幸の始まり。どうすればこの病気が治るのだろうか、というのも、一つの大きなテーマではあります。