コンテンツへスキップ

ヨーロッパ諸学の危機云々

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」というフッサールの本を読んでいます。

この本のさわりを、多少はしょって紹介しますね。


この客観性という目標設定によって、純粋な生活世界を越える一種の仮説を立てることになる。

このような「超越」を第一の判断停止によって予防したのであったが、その他の何が、学的に、これこそ全てのものに確立され得るもの、として要求できるかということになると困惑してしまう。

しかしながら、この生活世界はその相対性のうちにありながら、普遍的な構造を持っているということを省察するとき、この困惑はただちに消滅してしまう。

……

生活世界としての世界は、すでに学に先だって、客観的諸学が前提しているのと「ひとしい」構造をもっている。

ふーむ、味のある文章ですねえ。以下、私なりの解釈を述べます。定説とは違うかもしれませんが、気にしないで下さい。

ここで「学」というのは「哲学」のことです。フッサールの「現象学」は、極めて難解な哲学として知られていますが、それもそのはず。哲学は、もともと、万物の本質を追及する学問なんですが、フッサールは、「そんなことはお止めなさい(判断停止:エポケー)」と言います。だから、哲学として現象学を考えるのは、最初から矛盾しているんですね。

フッサールの時代、というか今でも、客観的諸学として、自然科学が成功を収めています。しかし、それと同様の客観性を持って、人と社会の本質に迫ろうというのは、土台無理だよ、というのがこの主張です。客観性の代わりに、「生活世界の普遍的構造」に対して考察を加えたら良いんじゃないか、というわけですね。

この話は、漫画の喩えでよく理解できるでしょう。

漫画は、客観的(自然科学的)には、紙の上に置かれたインクと理解されます。しかし、それを読んだ人は、そこに、だれもが同じように、物語を見出します。この物語が、つまり、生活世界の普遍的構造ってわけですね。