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文化のありかは、頭の内? それとも外?

文化はどこにあるのでしょうか。

建築や芸術、本や風習など、我々の外部のモノにも文化は存在します。一方、文化とは常識のことであるといえば、その常識は、個人個人の頭の中にあるはずです。

頭の外と中、全然違うようにみえますねえ。しかし、これ、それほど違わないんじゃないかと、私は思うのです。

哲学者が自分の心について考えるとき、心の中だけを省察します。しかし、人が何かを考えるとき、頭だけを使うということは、普通しません。まあ、頭だけで考えることもできるのですが、そんなやり方は、大抵、非効率的です。

人は考え事をするとき、メモをしたり、計算機に文章を打ち込んだり、図を書いたり、模型を作ってみたりします。ちょっとした計算も、暗算でできる人もいますけど、大抵は筆算しますよね。最近は、電卓とか、表計算ソフトを使うのが普通かもしれませんが。

このような、脳の外部にあって、人の思考を助けるものは、どのように考えれば良いのでしょうか。人の頭をパソコンで喩えると、メインメモリーの他に、ディスクを使うようなものでしょう。それは、脳の外部にあるのですが、脳を補佐する働きをします。

他人の脳の中身は、なかなか調べることができません。しかし、脳の外部にあるモノは、他人にも理解できます。殺人現場に残された、被害者が書いたと思われるメモの謎を、探偵が必死になって解く、なんてのもありますね。これらのモノは、更に進んで、他者への伝達を目的としたり、情報(文化)を共有するために作られたりもします。

計算機の喩えでは、フロッピーディスクに入れたデータを、他の計算機に持って行くようなものですね。この手のリムーバブル媒体(フロッピーディスクや CD-R など)は、主記憶の不足をカバーするための一時的なファイルとして使うこともできるし、データの運搬にも、出版にも使うことができます。

そう考えると、脳の中にある文化(常識)も、外にある文化も、そうそう違うものではないんですね。単に、ハードウエアが違うだけってか。

本日のところをまとめると、文化、常識は、考える装置としての社会が学習した事柄なんですが、それは、その社会を構成する全ての個人の意識の内に置かれ、個人の意識は脳の内部、及びそれを補助する脳の外部のモノに置かれて、脳の外部に置かれたモノは、他者に伝達したり、他者と共有されるんだ、ってことです。最後のモノは、人間の外側にある文化として、観察できるんですね。