コンテンツへスキップ

自我(コギト)の社会性

「アヴェロンの野生児」とか、「狼に育てられた子ども」って、教育の重要性を訴える文書に良く出て来るんですが、実はこの話、それほど確かではないという説もあります。(教育学者のいい加減さの証明だとする説も……)これらの話は、幼児期において人間社会とのふれあいなく成長すると、その後の知性の獲得が困難になる、という実例(?)で、だから教育は大切である、幼児とのふれあいは大切であるという話に展開するんですけどね。

ま、しかし、論拠はあやふやでも、結論はそれほど間違っていないでしょう。実際に、人間社会と切り離されて成長した子どもが存在したかしないかは別として、人間の知性獲得に、他人とのふれあい、コミュニケーションが重要な役割をしていることは疑う余地もありません。

人は言葉で考えます。言葉が、他者とのふれあいにより獲得されたものであることは、否定できないでしょう。自らの考えを述べる場合も、過去に見聞きした他者の考えを背景として、その上に自らの考えを展開します。つまり、継承された文化の上に、新しい創造がなされるんですね。

更に、同時代のコミュニケーションも大きな役割を果しています。

エゴ・コギト・エルゴ・スム、とデカルトが書くとき、その概念自体は自らの意識の中に生まれたのかもしれませんが、考えの土台になった言葉や論理性、問題の所在など、デカルトが周囲の人達と続けたやり取りが、その概念形成の過程に大きな影響を与えているはずです。物理的に言えば、人間どうしのコミュニケーションネットワークと、その中で形成された個人のニューラルネットワークの双方の働きにより、その言葉は生まれているのです。

現在、普通に行なわれる研究を考えても、大抵の場合、学問的成果は、研究者一人の独力で創り出されることは稀であり、先行研究を参照し、同僚、その他の関係者と議論しながら作り出されるのが普通です。だから、その研究を成し遂げた情報処理装置の範囲を考えるとき、一個人の脳にあるニューラルネットワークに限定すべきではなく、互いにコミュニケートするいくつかの脳がその概念を作り出したと考えるべきです。

コギト(思う我)って、ものすごく個人的な話のように見えますが、実のところ、他者との繋がりの中で語られた言葉なんですね。

ま、他者が眼中にないなら、本なんて書いているのは変ですよねえ。


こちらにまとめを掲載しました。