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考える意識と、研究する意識の違い

人間の思考が、個人の脳の内部に止まらない、ということを何回かにわたって書いてきましたが、個人の脳の内部に止まる思考だって、しばしば行なわれています。もちろん、その思考を可能とした知識、言語能力の獲得は、他者との関わり合いの元でなされたはずですけど、思考そのものは、個人の大脳の内部で行われ、その結果や途中経過が外部に現れない場合も多いでしょう。人知れず、一人で悩むとか、推理小説を読みながら、犯人は誰かなんて考える場合がそうですよね。その場合、思考する機能は、個人の脳の中に止まる、ということができます。

しかし、哲学の場合には、一般的に学問の場合もそうですが、それだけでは意味がありません。その結果が他者に伝達され、他者の評価を受けて、はじめて意味を持ちます。その内容も、単なる思いつきだけでは、大抵は相手にされず、過去になされた数多くの研究を再検討し、自らの思考の結果がこれ等の成果を、更に先に進めるモノであると、自分自身も確信し、他者にも納得させなければなりません。

学術研究というのは、対象を深く追求することが含まれているはもちろんなのですが、その成果を、自らの中に想起した他者に、いかに納得させるかという作業も含んでいるのです。

デカルトが何を考えていたか、想像するしかありませんが、デカルトが「我思う、故に我あり」と考えたとき、他者がその言葉に対してどのように考えるかということを、はたして考えなかったのでしょうか?私の推理では、答えは否です。その証拠は、彼が本を書いたことである、と考えています。

哲学を含む学問は、社会的行為であり、確かに個々の局面においては、一個人の脳の内部で全ての情報処理(思考)が行われることもあるでしょうけど、その前提、つまり、研究を始めるに至った動機付け、その研究を可能とする知識や能力の獲得は、他者との関りの中でなされ、恐らくは、研究の経過においても、他者とのコミュニケーションがなされるでしょうし、少なくともその結果は、他者と共有することが目的とされます。

個人が密かに何かを考える、そのようなことは広範に行なわれているだろうし、決して悪いことだとも思いません。しかし、その思考が個人の内部に止まる限り、その行為は社会的意味を持たず、学問の対象にもできません。我々が考えなければいけないのは、社会とリンクした意識による思考であり、「考える社会」に付いてこそ考察すべきなんじゃないでしょうか。