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平和の敵としての「ポストモダン」

ポストモダンの嚆矢リオタールの言う「大きな物語」、前回の日記では、近代化が人々を幸せにするという幻想(?)だなんて簡単に書いてしまいましたけど、実際の所はもっと複雑、それほど簡単な話じゃありません。

まあ、普遍的な世界が失われた、と書けば、かなり正解に近いのかもしれません。

一つには、多元的文化を認めざるを得なくなったということ。かつては、西欧キリスト教文化が唯一の正当な文化であると考えられていました。だから、インディアンの住むアメリカ大陸を、コロンブスが発見することができました。

しかし、イスラムが支配する中東での出来事が世界的な関心を集めるし、イスラム教徒(ムスリム)が世界中に進出し、そこでイスラム文化を守って生活しています。

日本の経済力も世界は無視できないし、アニメやゲームも世界中に輸出されていますね。中国だって、韓国だって、もはや、世界の経済に無視できない存在です。インドの思想に共鳴する人もいるし、米国には中南米の人たちが多く移住しています。

でも、西欧以外の文化が無視できなくなったから普遍的な世界が失われたというのなら、それまで西欧の人たちが信じていた普遍性って、本物じゃなかったんですね。あくまで、西欧の中でだけ通用する普遍性、ローカルな常識なんですねえ。これを指摘したのがレヴィ・ストロース、未開な種族も固有の文化を持つ、と主張しました。

そもそも、キリスト教徒も、ムスリムも、アジアの人たちにしたところで、ヒトには変わりない。話せば意図が通じるし、インターネットは繋がる、貿易だってできてます。科学技術には国境がないし、互いに共有できる知恵はあるんですね。

キリスト教を信じる人には認めがたいことかもしれないけれど、キリスト教も一つの宗教であるということ、一つの文化に過ぎないということを、まずは認めてもらわないと、真の普遍性は追求できないと思うんですね。

失われた大きな物語、それって、結局の所、西欧の常識が普遍的真実であるという妄信、で、その対応として、小さな世界に引っ込んでしまう、これじゃあ、全地球的な問題は解決できない。

ところで、普遍性の追求、なんて書きましたけど、これ、唯一絶対の真実の追求とは違います。こんな真実、人間には絶対に知ることができません。ヒトのニューロンは有限ですからね。

これ、フッサールの現象学にも通じる話です。彼は、主観と客観の一致は無理と見切り、他者と共有できる主観、という意味での普遍性を重視すべしと主張したんですね。

他者と共有できる主観としての普遍性、異文化コミュニケーションには必須な特性です。そんな普遍性、それほど簡単に獲得できないんじゃないの? なんて心配かも知れないけど、日本のアニメ、世界中に売れているわけで、そこには、確固とした普遍性があったのですねえ。インターネットにしたところで、世界中に繋がっている。そのプロトコル、世界の合意を得ています。

だから、ちょっと気を配れば、普遍的な議論だってできるはず。ブッシュには、その辺のところ、もう少し考えてもらいたい所です。世界の平和は、アニメやネットのお隣、つまり、私たちの目と鼻の先にあるのですから。