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アイデンティティーについて

都市の問題として、そこに住む人たちが、自己を見失う、という問題があります。「透明なボク」と、凶悪犯罪を犯した少年が自らを表現していました。これは、現在の青少年問題、というか、教育問題の一つでもあるんですね。

開かれた社会は、人を区別しない、誰でも受け入れる。これは、すばらしいことである反面、人は社会と匿名的に関わるわけで、自分が何者であるのか、知る必要もないし、わからなくなってしまう。

学校教育も、上から降りてきた画一的な教材とマニュアルを使ってなされ、偏差値みたいな、画一的な基準で生徒が評価される。これでは、誰々君、ではなく、偏差値いくつの理系の生徒、になってしまう。まあ、規格化された機械部品みたいな存在なんですね。

アイデンティティーが確立しない、自己を見失うと、どういう問題があるのでしょうか。

まず、そいつは何をしでかすかわからない、危ない奴です。「切れる」ってのは、感情の高ぶりで、一時的に自己を失うことなんですけど、アイデンティティーのない奴は、最初から切れまくりです。

その人にとっても不幸なことは、人生の計画が立てられない、場当たり的に行動するしかない。これは、社会的にも損失ですし、本人も、先行きに、漠たる不安を抱えて生きることを余儀なくされます。

じゃあ、どうすればよいのか。

ま、簡単な話、誰にも負けない得意技を見つけることなんですけど、それが簡単に出来るのは、小さな社会、コミュニティの中なんですね。ところが、大都市ではコミュニティが崩壊しちゃっている。

でも、コミュニティ、その気になれば、作ることも出来まして、現代のイロイロな組織は、内部にコミュニティを作ろうとしている。企業の小集団活動、自治体の活動、居酒屋の常連とか、ネットのボードもそうですね。教育の問題に関しては、学校をコミュニティにすればよい。

アイデンティティを確立するために、もう一つ大切なことは、自己の時間的連続性を大事にするということです。それがないと、捨てハン使ってボードをかき回しているようなもので、誰にもその人の理解できません。楽天の日記も、長く続ければ、アイデンティティ獲得の手助けになるかも、、、

これは、国家にも言えることで、それぞれの国が他の国々に認められ、そこに住む人たちも国家意識を持つ、そのためには、歴史を認識することが大事です。今の日本、第二次大戦のときに大失敗をしているんですけど、そこをあいまいにしてごまかそうとする。これでは、世界は日本を信用しないし、そこに住むヒトも、国民という意識が持ちにくい。ま、オリンピックみたいな、一時的な国民意識は出来るんでしょうけどね。すねの傷の一つや二つ、どの国にだってあるんだから、日本だって恥ずかしがることはない。これは、教育の場でも、きちんと扱っていかなくちゃいけません。

ああ、またしても長くなってしまった。続きはまた、ということで、本日はこの辺にします。