0を発見したのはインド人、1を発見したのはフェニキア人、だったかな?
どうして1が発見されなくちゃいけなかったかというと、その昔、1は数ではないと思われていたんですね。
つまり、数とは、数えられるもの。1つしかないものを、どうやって数えるんだ! ってなわけです。
「世界は一つ」なんて言葉、平気で使いますけども、このときの「世界」、って「全体」って意味ですよねえ。それって、数えるのって、おかしくありませんか? 「お命、一つ頂戴」なんていって刺客がやってきたらどうしましょう。
「真実はたった一つ」なんてコナン君が言ってますけど、その言葉が意味を持つのは、さまざまな謎があるから、つまり、多数の、真実らしい解があるから。で、そのうちのたった一つが、本当の真実だ、ってことでしょう。元々一つしかないもの、数える理由がありません。数の適用対象外、てーか。
でも、1は大事な数でして、3引く2を計算しようと思ったら、1がなくちゃ困ります。まあ、そういう意味では、数学技術上の必要ゆえに存在している数なんですね。1も、0も、、、
で、なんでこんなことを書く気になったかというと、八幡宮、神道は八百万(やちよろず)の神々を信仰するんですけど、キリスト教やイスラム、ユダヤ、みんな一神教なんですね。あ、でも、カトリック、三位一体、なんて言いますけど、こうなってくると、数にはあまり意味がないような、、、
一方のヤチヨロズ、って、800万という数に意味があるんじゃなくて、要は沢山、そこらじゅうに神様がいる、って意味なんですね。で、これと唯一神、その違い、いずこにありや、、、一神教の神を数えることってできるんでしょうか。1神教なんて言ってるくらいだから数えているのかもしれませんけど、不信心な人たちですねえ。
だって、数えるなんて概念、対象が二つ以上であることを想定している。真に一つであると信じるなら、それが全てであって、数えられるものではない。神は遍くおわします。それを、あそこにもここにも神ありと見るか、全てが繋がった一つの神と見るか、その間の隔たり、如何程のものなんでしょうか。
人の知的能力の限界に思いを馳せるとき、イスラムの神も、ユダヤの神も、そして、カトリックやプロテスタントの神も、はたまた神道の崇めるヤチヨロズの神々も、違うものだと言い切れるものか!
ソレ、オナジダヨ、なんか、神様の言葉、聞こえてくるような気、しませんか?