以前、アイデンティティとパーソナリティというお話をしましたけど、その中で、パーソナリティって言葉は、ペルソナ、つまり民族劇で使われている仮面が語源だなんてことを書きました。結局の所、パーソナリティはその人の社会的役割、社会がその人に期待することを、自分自身も自覚して、その役を演じる、そうやって演じられているのが、その人のパーソナリティなんですね。
まあ、パーソナリティをしっかり確立するのは、職業人としては必要なこと。こいつがないと、世の中渡りにくい。「で、あんたは、何なのさ」なんて言われそう。
テレビの出演者を「パーソナリティ」なんて言うのは、個性的なんて意味かもしれませんが、それぞれの出演者が、独特の役割を果たすことが期待されているんでしょうね。
会社の場合は「バリュー」等とも言いまして、その会社が、社会に存在する意味、顧客にとってのその会社の価値、なんてのが重んじられるんですね。
まあ、商売上は必要なパーソナリティ、だけど、仮面の下の素顔は、多分、外から見た姿とは違うはず。生きるために、本来の自分とは異なる自分を演じている。これが高じると、精神的に不安定な状態にもなりかねないんですねえ。
今の教育界、子供は良い子、良い生徒を演じている。勤め人は、良い社員を演じている。良い市民を演じたり、良い国民を演じたり、良い信者を演じたりしている人も目に付きます。まあ、それが本人の自然な姿に合っていれば良いのですけど、無理が重なると、どこかで、おかしな行為に走ります。
「何であの人が」なんて近所の人のせりふ、犯罪が起こると、よく耳にしますよね。その人はきっと、よき隣人を演じていたのでしょう。
こんな悲劇を避けるためには、人はもっと自然な姿に帰らなくちゃいけない。まあ、欲望丸出しでは、社会は成り立たないのですが、それを抑えるのも人の自然な姿、問題は、管理の押し付け、本人が理由もわからず、納得もしていないのに何かをやらされること。それに従う理由は、抵抗すると損するから、なんてのが多い。
こういうやり方、病的な精神を作るだけじゃなくて、そんな組織をだめにします。そりゃ、押し付ける側の人が、神の如く聡明な人であれば、「哲人政治」で良いのでしょうが、大抵の人は間違いを犯す、押し付ける側の人の間違いを正すことは不可能に近い。だから、そんな組織、あるときはうまく動いていても、いずれは破綻しちゃうんですね。
仮面を外して生きられるようにすること、これは、そこに住む人たちにも、社会にも、必要なことだと思いますよ。