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コミュニケーションの壁を越えて

先月の中ごろ、このブログに、テロルの時代と哲学の使命をご紹介したのですが、その後のご報告をしていませんでした。これ、別に忘れていたわけじゃありません。忘れていたわけじゃあないのですが、なかなかここに書き込むことができない。何しろ、読んでみると、どうもぴんとこないのですね。

確かに、9.11のあの大惨事のあとで、イスラムと米国という文明の対立に直面して、当代の第一級の哲学者であるデリダとハーバーマスにインタビューするという、その着眼点は良いのですが、これ、はずしています。

まあ、はずしている、というよりも、デリダなり、ハーバーマスなりの限界がそこに現れてしまった、ということかも知れないのですね。まあ、この限界、いろいろと調べてみると、以前から指摘されていた限界でして、この企画、最初から無謀な企画だった、ということなのでしょう。

まず、デリダは哲学の人で、どちらかというと、細部を掘り下げる人。問題は、言葉にこだわりすぎる。9.11というような眼前の大事件を前にして、言葉が浮いてしまいます。その結果、この問題の核心に迫る、というよりは、問題の周囲をぐるぐると回っているだけ、みたいです。

逆に、ハーバーマスは現実の問題に関わろうという人なのですが、正義がある、という確信を持っている人で、その正義とは、社会民主主義に近い。でも、文明の対立、正義の不在が大問題でして、ハーバーマス流のアプローチでは限界があるように思うのですね。

まあ、正義の不在、なんて言葉は、今だから言えることでして、何千人もの死者を出した大惨事の直後には、とても口にできる言葉ではない、ということは認めます。でも、それは厳然たる事実、だと思うのですね。

それに、今という時点では、9.11はカトリーナ被害と並列に論じなくてはならないのではないか、という気もするのですね。少なくとも、多くの被害を出したこの二つの事件、互いに密接な関係があることだけは、事実、であるわけです。閑話休題、話を戻しましょう。

もちろん、西欧社会がこの問題にどう対処するか、という観点であれば、ハーバーマスの言葉に意味があり、それで十分という主張もありえるでしょう。

犯罪として対処すべきであった、というハーバーマスの主張は私も同意いたします。でも、これは、西欧社会のとるべき対処の道、でして、それだけではイスラムとの討議は、はなから、あきらめている、としかいえません。討議を通して合意を模索する、というハーバーマスの主張なら、いかにして異文化間で討議を進めるのか、そんなことは、そもそも可能なのか、という点が掘り下げられなくてはいけません。

人の思考はその人が生まれ育った社会に規定されてしまう、という構造主義の主張は、現在では広く認められています。この考えに従う限り、ハーバーマスの主張する討議、これをいくら続けたところで、異文化に属する人たちの間では合意に至る保障はありません。

それでは、多文化並立の相対主義に徹して、異文化との対話をあきらめてしまえば良いか、といえば、そんなことでは、問題は何一つ解決しません。では、どうすればよいのか、というのが今日の難問、ということになるのですね。

でも、世界中の人々が同じ概念を共有する、なんてことはとてもできないにせよ、相互に違いを認め合い、相互のコミュニケーションが成り立つようにすることはできるでしょう。少なくとも、科学技術や経済の世界でそんなことは、すでにできているわけですからね。

合意を目指す、ハーバーマスの討議、のようなコミュニケーションもあるのですが、互いの違いを知る、というのも、コミュニケーションの一つの成果、ともいえます。差異を明確にするためのコミュニケーション、なのですね。

で、この差異を互いに認めたその上で、互いが受け入れることのできる基本的な部分を探る。いくら文化が異なるといっても、生物学的には同じ人間ですから、単純な項目では、最小限の合意を成立させることもできるでしょう。喫緊の課題には、妥協の産物であっても、ゼロよりは良い道を探ることもできるでしょう。そんな道を模索することが大事なのではないかと思うのですね。

実は、そういう形の社会のあり方は、現在の我々の社会の中にもいろいろな形で存在します。しかも、そんなあり方が、実は、現代社会の中で成功したシステムになっているのですね。

その一つは市場経済でして、個々の企業は独自の企業文化を持ち、それぞれに異なる戦略で経営されているのですが、商品は開かれたマーケットで売買される。その市場の規則をお互いが受け入れることで、多様な企業が同じ土俵で競争することができるわけです。

政党制民主主義も同じタイプの社会システムでして、思想・信条・結社の自由が保障されたベースに様々な政党がそれぞれの主義を主張し、選挙で戦って多数派が政権をとる。

学問の世界も、多数の研究機関が互いに独自のアプローチで研究を進め、公正なジャッジの元、論文を発表するわけですね。

新しいところでは、インターネットがありまして、簡潔で、実現可能なプロトコルを互いに認め合うことで、形態の違う組織が、メーカーもOSも異なる機器を同じネットに接続できるようになりました。

同じことが国際政治の世界でなぜできないのでしょうか。

一つには、宗教的な対立があります。これに関しては、宗教というものの位置づけを、一度検討しなおす必要があるでしょう。少なくとも、人類全体をカバーする唯一絶対の宗教は認めることは難しいはずで、多種多様の宗教を包含した、メタ宗教とでも呼ぶべき普遍的概念を作り上げる必要があると思います。これに関しては、このブログでも、今後考えていきたいと思います。ま、簡単なことではないでしょうが。

結局のところ、人々の思考能力には限界があり、世界の認識も近似的であれば、過ちも犯すものです。神の言葉といえど、書物に記すのは結局人間。それを書いた人が生きた社会と時代という背景の中で記されているのですね。

物理学的には、神の存在は見出されていないのですが、それを言うなら、人の心も、ニューラルネットを流れるインパルスのなせる業でして、物質界の法則に支配された自然現象なのですね。で、そこに心を認め、人格を認めるなら、自然界全体に、神の意思を認めても悪くはない。そういう概念的存在を認めること、これならさほど難しいことではありませんし、社会によって概念が様々に異なることも、なんら不思議な話でもないのですね。

物理的存在と概念的存在を切り分けて考えること。これは哲学が教えるべき基本ではないかと思います。

もう一つには、異質な他者を避ける、人間の原始的な本能がありまして、これが理性に勝ってしまうという状況が、実に頻繁に起こりやすいのですね。これに関しては、普遍性を追及する場と、生活世界の場とうまく切り分けることが一つの解ではないかと思います。これは、公私の別、といわれるものに近い概念で、公の世界は普遍性を追求しなくてはいけない、ということです。

民主主義の時代、大衆迎合が幅を利かせる、という傾向も確かにあるのですね。だから、政治的リーダの人格だけに頼ることもできません。これがきちんとなされるためには、最小限の大衆教育も必要です。

まあ、いろいろと難しい点はあるのでしょうが、だんだんと道は見えてきたように思います。これに関しては、この先じっくりと検討してみようかと思います。