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哲学に関するたたき台

正月というのは、考える時間も十分取れるありがたい時期ですので、このあたりで、これまでこのブログで議論してきた哲学的ことがらに関して、一旦まとめを行っておくのも、良いことではないかと思います。そこで、マーケットがお休みの間は、しばし、哲学論議を進めましょう。

1. トートロジーとしてのエゴ・コギト・エルゴ・スム

まず、デカルトの我思う故に我あり(エゴ・コギト・エルゴ・スム)ですが、これを否定することはそれ自体矛盾となりますから、真とせざるを得ない。これは、理性の告げるところです。

でも、そう結論できるのは、言葉なり論理なりの存在を前提としているからでして、デカルトなり、その文書を読む人たちが、人間社会と触れ合い、成長する過程で得た、互いに認め合うことのできる知恵なり文化なり、あるいは、常識の存在が前提となっているのですね。

そうして考えると、我思う故に我あり、という言葉、実は循環論理(トートロジー)の一種である、ともいえそうです。何となれば、常識は、共有された意識に他なりませんから。

結局のところ、すでに存在する人類の文化・常識の中で、その文化の中で育った人間が何を考えるにしろ、その文化・常識が前提となるのですね。

これらの文化に関しては、最初から存在するものとして、考えるしかないと思うのですね。そうであるなら、文化の担い手である人の意識の存在は最初から前提となります。実存は本質に先立つ、というわけなのですね。

2. 物理的存在と概念的存在

デカルトの本当の業績は、エゴ・コギト・エルゴ・スムという言葉にある、というよりも、物理的存在と概念的存在を分離して、概念的存在に価値を認めた点にあるのではないかと思います。

我々の周囲に、確かに、自然界という物理的存在が厳として存在することは認めざるを得ません。それは、あるときには心地よさを与えてくれるものでもありますが、苦痛の原因ともなり、人の力では如何ともしがたい場合も多々あります。また、自然界の法則性、保存性は、時には我々の意識や記憶よりもはるかに確かなものでして、忘却した事柄も、過去に記したメモを読むことで思い起こすことができるのですね。

この物理的存在というものは、実は、この空間に分布して、一定の法則の元に運動を続ける物質(エネルギー)であって、そこに付けられたさまざまな名前は人の概念的産物です。つまり、りんごだとか、机だとかは、これらに対応する物質の塊と結びついている場合もありますが、その対応関係は人の概念のなせる業でして、概念としてのみ存在する場合も多々あります。たとえば、上に記したりんごや机は、特定のりんご等を指し示してのものではなく、一般的概念として述べた言葉なのですね。

更に、空間にしろ、エネルギーにしろ、また、さまざまな法則にしても、それ自体が自然界に存在するわけではなく、自然現象を記述するために、人が考え出した概念的存在であるわけです。

3. 日常世界における概念と物理的存在の役割分担

さて、日常生活において、たとえばりんごを買う、という局面を考えてみましょう。

あなたが、家人、たとえば娘さんに、りんごを買ってきてほしい、と頼まれた、という状況があったとします。このとき、そのりんごという言葉は、特定の物理的存在を指し示しているわけではなく、概念としてのりんご、であるわけです。

あなたは、八百屋の店先で、そのりんごを一つください、と店員に言い、店員は山積みされたりんごの一つを袋に入れて、代金と引き換えにあなたに渡します。

このとき、りんごは、店先に積まれた物体を示す、という常識を店員とあなたは共有しており、予期したとおり、あなたはりんごという、あなたの概念に対応する物体を、一つ手に入れる、というわけです。

次にそのりんごを家に持ち帰って、娘さんに、ほれ、とわたすと、娘さんは意図したとおりのりんごという物理的存在を眼前にすることになります。娘さんにしてみれば、その瞬間に、欲しいと思っていた概念としてのりんごに、それに対応する物理的実態が結びつく、というわけです。

人々の日常生活においては、概念と物理的存在の対応関係も重要ですが、会話そのものは概念のレベルでなされており、概念的存在こそが社会的には重要であると考えられます。

但し、概念的存在は、最後には物理的存在との対応がとられ、こうして、会話が正しくなされていたことが確認されるわけです。

4. 物理的存在を超越した概念的存在

りんごや机など、多くのものは、概念がその物理的実態そのものと密接に結びついています。りんごなら、色や味や歯ごたえなどがりんごそのものである、と理解されます。

しかし、概念的存在の中には、物理的実態と何らかの形で結び付いてはいるものの、物理的実態を大きく超えた概念、というものも存在します。

一つは、言葉や絵画であって、紙に記された言葉や絵は、その物理的実在は、平面状に配置されたセルロース繊維に色素が付着しているものであるに関わらず、それを鑑賞する人は、そこに、書き手の意図した情景や物語を見出します。

もう一つは、人の心、でして、物理的実態はニューラルネットワークを流れるインパルスの一連の情報処理過程であるのですが、人はその中に、心を見出すのですね。

問題は、神、なのですが、自然界の雄大な姿に心を打たれることもありますし、そこに何らかの神々しいものを見出すこともあるのですね。また、人は社会の中で成長し、己の精神を形成するわけですから、そもそも宇宙全体に神の概念を見出す、ということだってありえるわけです。

ただし、社会的に形成された神の概念は、社会が異なると、必ずしも同じものにはならない、という点が大問題で、これをいかに調整するかという点が新たな問題となるわけです。

5. 多様な文化・常識とその統合の可能性

それぞれの人が持っている概念は、その人の成長の過程で、家族や周辺社会とのコミュニケーションや、教育、そして、その人自身が見たり聞いたり読む、といった経験を通して形成されるものであって、一般に人が育った社会の文化・常識に大きく影響されます。

現在の地球上には、多種多様な文化があり、常識を異にする多くの人たちが共に日常生活を営んでいます。人々の概念は、国や民族、宗教が異なれば、その違いも大きいのですが、同じ国であっても、地域や世代によって、また、社会的立場によっても異なります。

これら、文化・常識・概念を異にする人々は、互いに関係を持たずに日常生活を送っているわけではなく、互いに依存関係を持っています。多くの場合、この関係はスムーズに行われるのですが、問題を起こすケースも稀にあります。

文化・常識・概念の異なる人々の間で、コミュニケーションが成り立つためには、二つの点が重要であると考えられます。第一に、普遍的コミュニケーションであること。すなわち、互いに認めることができる共通のルール、共通の概念でコミュニケーションがなされる必要があります。

普遍的概念は、一般に範囲が狭く、最低限のルールを定めるという機能を果たします。それ以上の、互いに受け入れられない部分でのコミュニケーションも、実は可能であって、そのためには、互いの違いを認識して会話がなされなくてはいけません。これを同じ常識を共有すると誤解していては、コミュニケーションは成り立たないのですね。

現在のところ、少なくとも科学の世界では、全人類をカバーする普遍的コミュニケーションが成り立っているように見えます。また、経済の世界でも、国際間の貿易が成り立つことから、一定の普遍的ルールを、世界の大部分が受け入れている、と思われます。それ以上の社会的機能に関しては、いまだ世界は分裂している、と考えるしかないのではないでしょうか。

このような部分に関しては、互いの違いを認め合う、というのが、コミュニケーションの第一歩である、ということになります。

6. ローカルとグローバルの階層化、という解の可能性

だいぶ長くなりましたので、以下はまた明日にでも考察することにいたしましょう。