まず、デカルトの懐疑論は、実は、本気で疑っているのではなく、自然界や他者の存在を、常識として認めた上で、諸学の確かな基礎を見出そう、という試み、と解釈すべきでしょう。本気で全てを疑ってしまっては、本など書けませんから。
で、多くの哲人に囲まれた世界で、一つ得られた結論は、疑う自分自身の存在を否定することはできない、ということでして、この言葉自体は否定のしようもありません。
このとき、確実に存在すると言い切れるのは、考える主体であって、私にしてみれば自分自身ですし、この文章を読んでいる方であれば、その方自身の存在が確定します。
この言葉を見出したデカルト自身の存在は、私にしてみれば明らかではありません。なんとなれば、デカルト、というのは実在の人物でなく、誰かの創作であるという疑いを否定する根拠はどこにもないのですね。
また、このブログの読者から見れば、これを書いている私の存在だって怪しいものでしょう。実は、ネット哲学教育委員会、みたいなものがあって、合議しながら書いているのかもしれないし、超大型計算機が吐き出しているアウトプットかもしれません。
でも、読んで考えている人は、自分自身の存在は疑いようもない、これは否定できません。
この事実は、実はかなり大変なことかもしれないのですね。
考える、というのは、ヒトの大脳の中にあるニューロンがシナプス接合を介してインパルスを送りあっている、ある種の情報処理過程でして、その中には、魂とか心とかいった、超自然的存在は何も見出されていません。だから、ヒトが考える、というのは、単なる自然現象の一つに過ぎないのですね。
でも、一方で、考えている主体自体の存在は否定できない。それどころか、ニューロンがどうの、シナプスがどうの、ということ自体、ヒトが考えているその内容で自然現象なんだよ、と当の自然現象が言っているという、実に奇妙な状況なのですね。
結局のところ、我々が世界について考えるときは、二つの面から考えなくちゃいけない、ということなのでしょう。一つは、科学の教える世界。その中では、ヒトの知的活動はニューロンのなせる業。もう一つは、意識された世界でして、自ら主体的に考える世界。この二つの世界は、実は全然別の世界でもなくて、意識された世界の中に科学はあるし、自分自身もまた、科学的考察の対象になりえる、まあそんな世界であるわけです。
とはいえ、デカルトの言葉、やはり、トートロジーといえば、そう言えそうな気も、、、
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