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暑さ寒さ、に思うこと

このところ暖かい日が続いておりますが、先週の初め、寒い日が続いたときのことです。出勤は朝が早いものですから、寒さも一段と厳しく、今日はまたなんと寒いんだろうなどと思いながら、駅へと歩いておりました。

で、ふと思ったことが面白くて、寒さも忘れてた、なんてことがあったのですね。本日はこれについてご紹介致しましょう。まあ、皆さんも、寒くて仕方がないときは、似たようなことを考えるのも、また一興かも知れませんね。

で、何を思ったのかといいますと、今日は寒い寒いなどと思いながら歩いているのだけど、何ヶ月か経つと、今度は、暑い暑いと思いながら、同じ道を歩くことになるんだろうなあ、ということなんですね。

まあ、最初は、その対比が面白くて、自分で考えながら、にやっとしていたのですが、寒けりゃ寒いで文句を言い、暑けりゃ暑いで文句を言う、人間とはなんと身勝手なものか、というところまで発想が進みますと、そりゃ当然だ、と自分自身が反論して、このギャグ的着想は一転、現代社会の抱える問題を解く鍵になるかもしれない、という話に昇華していくわけですね。

先週の本欄でご紹介しました藤原正彦著「国家の品格」につきまして、先週はケチばっかり付けてしまったのですが、もののあわれに代表される、日本人の自然感覚を高く評価した部分に関しましては、まことにごもっとも、と私も思います。

ただこの方、論理を嫌っているだけに、情緒的な指摘で終っているのが残念なところなのですね。で、その先の展開、ひょっとすると、暑さ寒さで悩まされる日本人、というところに鍵があるのではないか、と考えたわけです。

国家の品格、本をお持ちの方は、107ページを御覧下さい。四季のないのが普通、と題された節で、季節感が豊かな日本の風土に触れ、だから自然に対する感受性が発達するのである、と論じます。

一般にヨーロッパは冬の寒さは厳しいのですが、夏はそれほど暑くない。たまに暑い夏があると、それがニュースになったり致します。なにしろ、冷房設備のないホテルが多いものですから、宿泊客はたまったものではないのですね。でもこれは、贅沢な現代人の話。いくら暑くても、死者がでるほどの暑さではありません。冬の寒さは、命に関わる寒さ、なのですけどね。

基本的には西欧文明は、厳しい冬と、温暖な夏の間で育まれた、と考えて良いでしょう。こんな世界では、気温は高ければよい、という単調増加形の価値基準ができるのでしょう。

一方で、インドなど、夏は死ぬほど暑いけど、冬は過ごしやすい、そもそも、冬などない、なんてところでは、気温は低ければよい、という価値基準ができるはずです。

いずれも、良い悪いと気温の関係は1次の関係。あがれば良いか、下がれば良いか、の違いだけです。

一方で、日本のような場合はどうでしょうか。暑くても困るし、寒くても困る。吉田兼好が、住まいは夏を旨とすべし、なんて書いたのも、どちらにあわせれば良いか迷う人が多いからに違いありません。

こんなところでは、良い悪いと気温の関係は2次曲線の関係になるのですね。つまり、どこかに最適点がある、というわけです。

同じことは、湿度(水分の量)についてもいえるわけで、砂漠の民は水分の多い土地を求める一方、アマゾン流域等の熱帯雨林の民は乾いた土地を希求します。

これが日本なら、異常乾燥注意報が出て、喉を痛める季節もあれば、雨が続いて洗濯物が乾かなくて困る時期もあるのですね。日本人、どちらの極端にも、困ったものだ、という意識が長い歴史の中で育まれているわけです。

一方の極端に善があり、他方の極端に悪がある、という考え方は、絶対的な正義にも繋がり、宗教面では一神教を生み出すのでしょう。

一方で、どちらの極端も悪であり、中庸に善がある、という考え方は、和を重んじ、異なる考え方の人々の間に妥協点を見出そうという考え方にも繋がるのでしょう。

おそらく、前者が西欧の思考形態であり、後者が日本の思考形態、なのではないでしょうか。

で、どちらがより優れているか、といえば論を待ちません。直線的な価値基準が妥当するのは、思考範囲が限定されているから。寒さには悩まされるけど、暑さで悩んだことがない、というのは、単に知の領域が狭いだけ、ということなのですね。

元来、人の体は、生存に適する温度範囲、というものがありまして、どちらの極端に行ったところで、生存は厳しくなります。水分の多寡に関しても同様で、適量というのが、どんな世界にもあるのですね。

ちなみに、人の考え方が、その人が住む環境に強く影響を受ける、という事実は、今日では広く認められております。たとえば、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義
によりますと、構造主義は今の世界では常識で、それは一言で言うと、

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

ということです。気候が人の考え方に影響を及ぼすこと、何の不思議もありません。

さて、科学技術が発達すれば人々は幸福になり、工業化を進め経済が発展すれば人々は豊かになる、というかつての西欧文明が常識としていた「大きな物語」は、今日では疑問視されています。一方では地球環境の問題もあるし、生命科学の分野では倫理感との衝突が起こっています。また、異文化との共存も大きなテーマとなっているのですね。

特に問題なのが地球温暖化、でして、米国南部に大きな被害をもたらしたハリケーンにしても、わが国の日本海側に頻発する豪雪にしても、海面の温度上昇が原因であると考えられています。経済の発達は、人々を豊かにすると同時に、地球環境を破壊し、多くの人々に災いをもたらしている。これが今、まさに起こっている事態なのですね。

こうした問題をいかに解決するか、が今日人類の抱えている最大の問題なのですが、直線的なものの考え方では、おそらく解は得られないでしょう。両極端間、ほどほどのところに最適点があるという、日本人的考え方に、おそらく問題を解決する道があるのではないでしょうか。

こうしてみると、確かに、藤原氏の言われるように、世界を救えるのは日本人だけ、なのかも知れません。地球温暖化阻止の最初の試みが京都議定書であったのは、単なる偶然ではなかったのかも知れませんね。

まあしかし、これは、重すぎる責務、と言えなくもないのですが、、、