ホリエモンに続き村上氏の事情聴取と、マーケットの新しい動きに絡んで、倫理の問題を考えざるを得ない状況が続いています。でも、金儲けはけしからん、などといわれてしまいますと、そもそも株式投資など倫理に反する行為、金利を取ることを禁止するイスラムの掟などよりよほど厳しい倫理基準になってしまうのですが、いくらなんでもこれはないでしょう。
金儲けはけしからん、という主張の代表例が国家の品格。でもこれは、少々無茶な主張である、ということを以前ご紹介いたしました。
また、少し前のこのブログでは、国家の品格からヴィトゲンシュタインに飛び、倫理は超越論的である(倫理と美は一つである)というところまでたどり着いたのですね。で、この美あるいは美学、「生きる意志」なんてものにリンクして終わっているのですが、これは少々漠然としています。
まず、藤原氏は、倫理に理由などない、といいますし、ヴィトゲンシュタインは倫理は超越論的である、といいます。だめなものはだめ、と昔の社会党の委員長も言っていましたが、この主張に一理あることは認めざるを得ないでしょう。しかしそれだけでは、平行論になってしまいます。
何が善で、何が悪であるのか、という倫理の内容に関しては、確かに論理を超越したところに基盤があるのかもしれませんが、倫理とはなにものであって、それがどこに基礎を置いているのか、という部分では、考察の余地があるのではなかろうか、と思うのですね。
で、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読むなのですが、ここで対象としているのは論理の世界でして、理性に基づいて意識の内部で処理される世界なのですね。と、ならば、その外部の世界、超越論的な事柄があるべき世界は、無意識の世界なのではなかろうか、というところに考えが進むのは、まず自然な話でしょう。
と、いうわけで、少々古い本ですが、無意識の構造(河合隼雄:中公新書:1977)を読み返しました。
人の心には、自らが意識している事柄のほかに、意識のたどり着くことができない事柄も無数に抱え込んでおり、これがその人の意識する世界にさまざまな影響を与えている、という無意識の心理学は、さまざまな精神的病理を解析したフロイトが確立した理論で、今日では、広く認められています。
で、御紹介いたしました本は、この無意識の世界について解説を加えているのですが、33頁に面白い図があります。言葉で説明いたしますと、自我の下に意識があり、その下に「個人的無意識」が、その下に「(家族的無意識)、(文化的無意識)」などとかかれました、「社会的無意識」とでもいうべき層があり、さらにその下に「普遍的無意識」があるように描かれているのですね。
なるほど、この無意識の構造であれば、倫理、美学に通じそうです。なにしろ、倫理、美学につきましても、個人的なレベルから、社会的レベル、そして人類が共通に感じる普遍的レベルまで、さまざまな階層に区分することができるのですね。
今日の市場を巡る倫理の問題を難しくしている原因は、市場の社会的構造が急変しているためではないか、と私は考えております。
無意識の世界は、普遍的部分の一部は生まれながらにして形成されておりまして、その他の部分も、人が成長する過程で、長い時間をかけて形成されるもの。ある日突然変わる、なんてことはできようがありません。
一方で、わが国の市場を巡る状況は、バブルの崩壊、金融危機から、グローバルスタンダードへの移行と、急変してしまっているのですね。この結果、マーケットの公正さは何よりも重視されなければいけない一方で、株式持合いに基礎を置いた、過去の馴れ合い・持たれ合いの慣習は否定されなければいけなくなりました。
公正な市場取引を通した富の形成は賞賛されるべき行為である一方で、談合やインサイダー取引は厳しく罰せられるようになったわけです。
ライブドアや村上ファンドに対する検察の主張が、これらインサイダー取引である、というのは妥当なところであると思うのですが、金儲けはけしからん、という考えが今日の社会に広く蔓延しているのは少々問題あり、と思うのですね。
人の無意識の世界、美学や倫理観、といった正の無意識ばかりではなく、妬(ねた)みや嫉(そね)みといった感情を生み出す負の無意識も含まれております。劣等コンプレックス、などと呼ばれる奴ですね。
村上氏、持ち合い解消後のわが国の株式市場で荒稼ぎする海外ファンドの姿を見て、このままではわが国の富が海外に奪われてしまう、との危機感から、自らファンドを始めた、ということをかつて読みました。日本人の一人として、喝采したい動機、なのですね。
まあ、自分を良く言う、というのは誰しもあることでして、この発言を文字通り受け取る必要はないと思いますが、海外ファンドの荒稼ぎは事実ですし、その後の村上氏の行動様式も、海外ファンドを踏襲しております。
これに対する反応が、同じ日本人が荒稼ぎすることに対する妬みや嫉みであったとすると、これは少々問題。少なくともこの反応は倫理とも美学とも矛盾いたしますし、海外ファンドの横行を放置して国内勢のみを厳しく取り締まること、わが国の富を、あたら毀損する行為ですらあります。
株式市場、公正な取引環境が守られなければならないこと、論を待ちませんが、その規制は公平でなければなりません。今回の検察の対応が、果たして、海外ファンドに対する対応に比べて、同等ないし妥当なものであるのかどうか、国民の一部にある妬みや嫉みの感情を味方としての行動ではないのか、胸に手をあてて考えねばならない、と思うのですね。
最近、駐車違反の取締りが、民間委託で監視が強化されたことに加え、違反即罰金という形に取り締り基準が強化されました。このため、流通業界が対策に追われている、という記事が、最近の経済新聞にありました。
この記事、業界よりのスタンスで、大変ですねえ、という書きっぷりなのですが、良く考えてみると、取り締り強化で大変、ということはすなわち、これまでは違法行為が日常的に行われていた、ということを意味しているのですね。法が変わったわけでもありませんからね。
違法駐車を原因とする交通事故も多数発生しており、死者も出ている。そのような重大な犯罪を日常的に行ってきたこと、企業自体も把握している様子で、最近流行のコンプライアンスは一体どこに行ってしまったのか、と首を傾げざるを得ないのですね。
いやぁ、最近、警察の取締りが厳しくて難儀しておおるのですよ。ほほう、お宅もですか、なんて会話が交わされる業界、お日様の下では商売できない人達の世界、ですよねえ、、、
そんな違法行為の対策でありましても、警察庁は厳密な違法駐車の取り締り基準を公開して取り進めているのですね。
特に市場のルールに関しましては、公開された明白な基準と、公平な処置が、駐禁取締りなどよりも、よほど強く求められるのではないか、と思います。ライブドアと村上ファンドのケースに関しましては、今後の成り行きを、注意して見守りたいと思います。