MiND/マインド/心の哲学を読んでから、哲学的考察を続けております。本日は、前回、前々回に続き、この考察を続けましょう。
さて、前回、意識はアキュムレータである、なんて説をご紹介して、自分自身で、少々気分が悪くなりました。自由に考え、自由に行動しているように、自分自身では思っていても、実は、人というもの、単なる物理現象で、意識もコンピュータの計算と同様な、情報処理の過程に過ぎない、なんてことを受け入れることは、相当に難しいものがある、と私も思うのですね。
でも一方で、徐々に解明が進んでまいりました人の脳の中に、何ら超自然的現象は見出されていない、となりますと、やはりこれは、自然現象のひとつであり、物理的な法則の元で動く存在であるということは否定できそうにないのですね。
で、このいやな感じ、実は振り払うこともできるのでして、本日はその点につきまして、少々考察を加えてみたいと思います。
実は、人の精神活動が物理現象として説明できるし、同等の機能をもつ装置は、人工的に作り出すこともできそうだ、という物の見方は、分析的知性とか、還元主義、といわれているものでして、さまざまな現象を、より単純な要素の振る舞いに還元して理解する、自然科学でごく一般的にとられる物の見方であるわけです。
分析的な思考を進めれば、人は諸器官の集まりであり、器官は細胞の、細胞は分子の集まりで、分子は原子に、原子は素粒子に還元されます。ですから、全てのものは素粒子の相互作用である、と言い切ってしまうことも間違いとはいえないのですね。
で、デカルトに帰るわけですが、物理的に存在していると言えるものは、空間に広がるこれら素粒子のみであり、その他のさまざまな属性は、人の心の中の、概念としてのみ存在する、というわけです。で、人にとって重要なのは、物理的な実在ではなく、概念である、というわけなのですね。
この概念にも、さまざまなものがありまして、ひとつは、物理的実体の一部に対応する概念でして、オブジェクト指向プログラミングにおけるオブジェクトが記憶領域の一部に対応しているように、空間に広がる素粒子の一部分を、この林檎、あのコップ、など、特定のクラス(型)に属する概念として把握している、というのが概念のひとつです。
その他、一般的な、林檎、という概念もあり、これは、特定の物理的実体を離れた、林檎というクラス(型)の概念で、それは林檎の木という植物の果実であり、食材であり、青森県などで栽培される農産物であり、八百屋やスーパーで買うことができる、などのさまざまな知識が結びついた概念であるわけです。
この、クラスとしての概念は、オブジェクトとしての概念とは、きちんと区別して扱わなくてはいけません。まあこの区別、英語などでは、オブジェクトとしての概念を定冠詞や大文字で始めるなど、表現に明瞭な区別がなされるのですが、日本語はあいまいでして、混乱を招きがちです。
そういえば、インターネットも、ローカルエリア相互を結ぶネットワークとして始まりまして、最初のころは、あちこちにインターネットが独立して存在してました。そのころのインターネットという用語自体は、一般的な概念であったのですね。ですから、最初のころは "internet" と小文字で表現されていました。でも、インターネットの相互接続が進み、ついには世界のインターネットが全て結ばれるようになりますと、"Internet" とか、"the Net" などと表現され、特定のネット、世界にひとつだけのインターネット、を指すようになったわけです。
分析的知性が目指す「還元」は、実は、クラスとしての概念に対して行われる作業であり、オブジェクトとしての概念に対する作業ではありません。人は、クラスとしては、科学的知見の範疇に入るのですが、物理オブジェクトとしての個々人は、分析的知性によります還元の直接の対象を外れ、自然科学が記述する以外の何物か、例えば個性など、を持ちつづけることができるのではないかと思います。
もちろん、科学者が分析を行う際には、特定のサンプルを用いるのですが、科学者が眼前の林檎の中に、例えば細胞を見出したときに彼が発見したものは、眼前の林檎(オブジェクト)に対する発見ではなく、一般的な林檎という概念、すなわち林檎クラスに対する発見であるわけです。
そういえば、現象学の祖でありますフッサールも、「自然科学の忘れられた意味規定としての生活世界」などという一項を彼の著作、ヨーロッパ諸学の危機――に設けています。生活世界で問題となりますのは、この林檎、あの林檎という、オブジェクトとしての林檎概念である場合がほとんどなのですね。
例えば、林檎栽培農家の主が林檎に虫食いを発見した場合、彼がそこに見出した事実は、特定の林檎が虫に食われている、という事実であって、林檎一般が虫に食われるものである、という生物学的発見ではないのですね。
まあ、生活世界におきましても、林檎にしちゃあ値が張りすぎているね、などと、時には林檎一般の性質、すなわちクラスとしての林檎概念も意識されることはあるのでしょうが、科学者の世界とは相当に異なる林檎クラスの概念を生活世界の人々は共有しているわけです。
と、いうわけで、科学的、分析的見地からは、人の知的活動は脳という器官が担っており、脳はニューラルネットワークの情報処理活動に他ならない、ということが正しい場合にも、これは、生活世界、つまりわれわれの普通の実感からはかけ離れた事柄であって、心やこれにかかわる種々の事柄を含む、生活世界のクラス概念もまた否定されるべきではない、ということは言えるでしょう。
分析的知性の遂行する還元的知識体系を受け入れてもなお、デカルトのコギトに基づく世界観もまた否定できません。分析的知性といえど、概念を扱っており、概念は人の思惟の結果としての存在なのですね。物理的実体は空間に分布する素粒子である、などといってみたところで、空間にせよ、素粒子にせよ、人の思惟の産物である概念に他ならないのですね。
人の知的活動は物理現象に他ならないことが事実であるといたしましても、だからといって人の知的活動を否定してしまいますと、人の知的活動は物理現象に他ならない、という人の知的活動の成果も否定せざるを得ず、人の知的活動を否定する根拠を失うこととなってしまいます。
結局のところ、われわれは、最低でも、二つの物の見方をともに受け入れるしかないものと思われます。
一方は、分析的知性の成果であります、より基本的な要素へと還元する見方であって、その結果、物理的実在は素粒子の空間分布に他ならないこと、そのさまざまな部分に人が当てはめた概念が物理的オブジェクトであることを認めるしかないものと思われます。
分析的知性は、また、さまざまな機能を果たす人工物を生み出すことを可能とし、人の脳と同じ機能を果たす装置も作り出すことができても、何の問題もないわけです。
他方は、コギトに基盤を持つ見方であって、自己の意識の存在を認めた上で、おそらくは感覚の彼岸にある物理的実在を認め、自らに似た主体的存在として他者を認め、他者との間に概念の共有を目指す行き方です。
この二つのものの見方は、個人の意識を出発点とするか、人類共通の科学的知識を出発点とするか、の相違であって、いずれかの見方が正しく他方は間違っている、ということではありません。同じコインを裏から見るか、表から見るか、の違いだけ、なのですね。
だから、人の意識は物理的な現象であり、同等の機能を有する装置は人工的に製造することも可能である、という命題と、人は意識をもち、自由意志をもっている、という命題は、視点が異なっている(つまり、論理が展開される世界が異なっている)だけで、視点を変えさえすれば、共に成り立つことも可能であるわけです。
で、おそらく第三の物の見方がありまして、それは生活世界の物の見方です。これは、おそらくはフッサールが重視した世界ではないかと思うのですが、実に、デカルトは、このものの見方にも言及しておりまして、彼の考えが実のところどのようなものであったのか、興味の尽きないところではあるのですね。
現在の私の興味は、世界がどのようにできているのか、という点であって、過去に誰が何を考えたか、という点につきましては、あまり深く踏み込むつもりはないのですが、バチカンの思惑に強い影響を受けてしまったデカルトの書物、この中に、デカルトの本来の思惟を読み解くことは難しいのではないかと思います。
ここに再構築しておりますひとつの哲学的世界、ある種のフィクションとして、デカルトの暗号を解く試みでもある、と勝手に考えている次第、ではあるのでした。
そうそう、バチカンに対する配慮からか、デカルトの書物は神の存在証明、という形をとっているのですが、ここで展開している世界観によりましても、比較的容易に神の存在が証明できます。
まず第一に、物理的オブジェクトとしての神は、遍く存在する、との定義から、物理的世界全体である、ということができます。全体はひとつしかない、という意味で、一神教は正しいし、全体を部分の集まりである、と考えるなら、多神教もまた正しいわけです。
世界全体が、意識や感覚や自由意志を持ったり、愛だのなんだのと言い出すのはおかしい、と思う方もおられるかもしれませんが、それを言うなら物理現象に他ならない人間も、えらそうなことを言う資格はない、ということになってしまいます。
次に、神は属性として存在する、ということをデカルトも語っているのですが、概念としての神、これは、人のニューロンの中に神の概念が存在すればよいわけですから、少なくとも神を信じる人にとっては神は存在するし、信仰が共有された社会においては、神の存在は常識であるといえます。
とはいえ、それを神を信じない人に強制するのはいかがなものかと思いますし、無神教(?)の社会におきましては、神は存在しないことが常識である、社会的な事実である、ということになるわけです。
幸い、デカルトの生きた社会は、キリスト教信仰を当然視する社会でしたから、デカルトにとっても、当時の彼の書物の読者にとっても、このような神の証明であっても、十分に説得力があったはずです。
でもそれを明白に書かなかった、ということは、おそらく、無神教社会における神の非存在、というところまで、デカルトは思いをめぐらせていたのではなかろうか、と思うのですね。
ま、考えすぎかもしれませんが、、、