これまで、心の哲学に関係して色々と論じてきましたが、結局のところ、心身問題といわれるポピュラーな問題が、解決すべき問題となっているわけです。
で、ウキペディアによりますと、この問題の発端はデカルトである、とのことなのですが、私の印象では、デカルト氏、答えを書いているように思うのですね。
まあ、王女様にわかりやすく説明した話を突っ込まれたりすると、困ってしまう、というところではないかと思います。
とはいえ、この問題、通説となる解が未だ存在しないように見受けられますので、デカルトが多分考えていただろうと私が理解するところの解を、以下、簡単に記しておきます。
1.真に物理的に存在しているといえるのは、空間に分布するエネルギー粒子だけであり、その他の属性は全て、人の概念の中に存在する。(前者がデカルトの言うエクステンションの本当の意味だと思うのですが、どうなのでしょうか?)
・八百屋の店先でりんごを手に取ったとき、それを他とは区別された個体とみなすのは、人の精神の働きによるものであるし、りんごと認識するのも人の精神の働きによる。
・オブジェクト指向プログラミングのアナロジー:オブジェクトはメモリー領域の一部であり、これを特定のクラスのオブジェクトとして扱うのはプログラマーの認識で、ソースレベルでしか意味を持たない。
2.人が思考の対象とするのは概念であり、人はその概念を他者と共有している。科学は他者と共有された概念の世界における自然理解である。
・他者と共有された概念、という考え方は、現象学のいう間主観性と同じ考えであると思うが、これを「客観的世界」と言い換えることもできよう。ここでの「客観的」という意味は、人の主観と独立に存在する絶対的な真なる世界ではなく、自らと異なる環境にある他者とも共有可能な主観、即ち、「客の主観」→「客観」である。
3.さて、神の存在証明をめぐって諸説あるが、神の存在を疑うというなら、全ての存在を疑ってかかってみようではないか。そうしたときにも、疑っている自分自身の存在は否定できないであろう。
・我惟う、故に我あり:エゴ・コギト・エルゴ・スム
4.次に、眼前の物体について、観察を深めれば深めるほどより知得が深まることから、確かにそれは存在すると認められる。これは、感覚や想像力によってではなく、独り知性によってのみ認識される。(メモが自分の記憶より確かなことからも裏付けられますね。)
5.こうして完全なる神の観念があることから神の存在も証明される、とするのであるが、この部分はバチカンに対するリップサービスであるとみなして、著者は切り捨てる。
6.私が思惟するものでしかなく、物理的に実在するものではない、ということと、身体は物理的な実在であって思惟するものではない、ということから、私は身体とは独立の存在であるとする。(延長を物理的な実在といたしました)
・この部分が二元論、ということになるのでしょうが、これも魂の不滅を主張するバチカンへのリップサービスである、と私は考えます。で、6'の修正版を考えます。
6'.私は思惟するものである、と私の主観は確信するが、私の物理的実在に関しては私の主観だけでは定かではない。一方で、私の身体が物理的な実在であるということは、私の主観が確信している客観的(他者と共有された主観的)世界における事実であるが、その世界においては、私の身体は機械的な存在であり、主観の存在は無視されている。
・だから魂がある、ということにもならないわけで、主観的世界における存在・非存在と客観的世界における存在・非存在が同じでなければならない、という理由はありません。
・主観的世界においては、自らの思惟こそが全てであり、我思う故に我あり、です。
・客観的世界においては、人の身体は機械的存在であり、意識を司る器官の存在は認められるものの、主観の存在は無視される。
・これは、論理の矛盾ではなく、論理がよってたつ世界が異なるためである。
7'.(これは筆者の考えです) 人は自らの主観の上に世界を構築する。しかしそれは、他者との概念の共有の元になされ、自らの認識についても他者との共有を目指す。その結果、形成される普遍的(誰でもがそう思う)ないし客観的世界において、個人の主観は無視され、人が主観を持つ、という事実は尊重されるものの、一方で、人の身体は、知的活動を担う脳自体も、機械的存在とみなされるのである。
・主観的世界はコギトの上に構築される世界で、自らの意識が全ての礎となる。
・客観的世界は、他者と共有される世界であり、自らの特殊性は捨象される。つまり、この世界にコギトは入りえないし、自ら(のみ)が実感する自由意志などは無視されなくてはならない。
というわけなのですが、どうでしょうか?