この週末、書斎の本棚の前に陣取りまして、書棚の肥やしの再評価をしています。で、本日も古い本のご紹介を続けます。
本日ご紹介いたしますのは、脳の話。時実利彦著、岩波新書のこの一冊は、1962年の出版ですが、在庫ありです。ちなみにお値段たったの777円。内容の割にはお買い得です。
この本、もちろん、1962年の初版ですから、最近の研究成果に関する記述が含まれていないのは当然のことなのですが、実は、1962年の時点で、脳の働きに関しては、相当なことがわかっていた、ということが改めて認識されます。
先週あたりまでご紹介しておりました、サールの「心の哲学」、なんかおかしいとの印象が私には感じられたのですが、実はその理由、私がかつてこの本を読んでいたからだ、ということに、この本を読み返して気付いたのですね。つまりは、1962年時点で判明していたこと、サール氏の本では、忘れ去られているような気がいたします。
さて、本題に入りまして、脳の話、内容をご紹介いたしましょう。
まず人間精神理解に関する歴史的な概観が述べられます。ふうむ、ここにも、我らが、デカルトさん、登場されますね。ちょっと引用しておきましょう。
ところで当時、精神の座について、特異な考えをもっていたのは哲学者デカルト (R. Descartes) である。身体を時計になぞらえたほどの徹底した機械論者であっただけに、精神の仕組みについても、彼の本領がよくうかがえる。
デカルトは、松果体(内分泌線の一つ)が脳室の中央に位置していると考え、ここに精神の座を求めたのである。松果体の中に貯えられている霊気は、松果体のまわりをとりまいている神経の管を通って、筋肉へ送り出されるのであるが、松果体の傾き方によって、送りだされ方が違い、その結果いろいろの運動がおこるという。また、感覚神経の管のなかには、感覚器と松果体をつなぐ細い糸がはられており、刺激が感覚器にはいると、その糸を通って、松果体にその印象が刻みつけれるというのである。
このように、デカルトの思想はきわめて機械論的であるが、えたいの知れない霊気の存在を無条件にみとめていたことは、彼もやはり時代の児であったわけである。
さて、歴史的概観の結果、人の精神的活動、心の所在は脳にあり、ということに話がまとまります。で、その次に、脳の構造と各部の機能の解説がなされます。この解説、人の脳の処理全般に及ぶのですが、ここでは、私にとって興味深い点についてだけ、ご紹介いたしましょう。
まず、言語に関する部分ですが、大脳左半球にあります「言語野」という部分が、この働きを担っています。これを更に分けますと、舌などの動きを制御する「運動性言語野」、聴覚野を取り巻くように存在する「感覚性言語野」、そして、依然明確ではないものの、大脳辺縁系に存在すると思われる「情動的言語野」の3つがあると考えられているのですね。
さて、問題は意識の座、ですが、これは、「脳幹網様体賦活系」にあると考えられております。この部分は、感覚神経路からのインパルスが入力され、刺激が強いと意識の水準が上がり、刺激が弱いと意識の水準が下がる、というわけです。
網様体から大脳皮質につながる経路には二つあり、ひとつは視床中心部経由の「広汎性視床投射系」で、ここに意識がありそうだ、と考えられており、もう一つの経路は、大脳皮質全般を制御していると考えられているとのことです。
と、いうわけで、人間の脳、ハードウエアに関しては、かなりのことがわかっているわけですね。それも1962年の時点でわかっていたわけで、しかもその基本は、デカルトが既に考えていたわけです。
問題は、ソフトウエアの部分、ないしロジックの構成、といいますか、仕様、の部分ですね。
それから更に問題なのは、このように理解される人の精神的な働き、それを理解しているのは人の精神的働きそのものである、という一見混乱した状況、これをいかに解釈すべきか、という哲学的、論理的問題でして、サール氏の心の哲学も、この部分で混乱をきたしているように、私には思われます。
こちらの問題に関しましては、これから先も、考察を深めていきたいと思います。