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「西洋哲学史――古代から中世へ」を読む

先日本屋をのぞきましたら、「西洋哲学史(古代から中世へ)」という本が平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。このブログでも、哲学的な考察をいくつか進めていますから、やはり気になりますよね、こういう本は。

とはいいましても、本ブログの哲学的考察は、デカルトとフッサールでして、この本の扱っている時代からは少々外れます。まあ、下巻に期待、というところですが、それでも、デカルトやフッサールの思想に近いことは、それ以前の人も色々と考えているのが面白い。学問や哲学思想というものは、ある日突然どこかの天才がひらめく、というようなものではなく、長い間の思索の歴史を通して、人類が少しずつ積み上げていくものなのでしょう。

そうはいいましても、古代の哲学者の関心ごとは弁論術、ああいえばこういう、といった、議論のための議論のような雰囲気がありまして、あまり面白くもありません。まあ、こういう話を読みまして、ギリシャ・ローマの昔に思いを馳せるのは、豊かな時間がゆったりと流れていくことが実感できる、なんとも幸福なひと時ではあるのですが、その内容をここにご紹介しても詮無い話。この雰囲気を味わいたい方は、一つ同書を読まれることをお奨めいたします。

次に中世にまいりますと、一つの大きなテーマが「神の存在証明」でして、これもいまさら議論する価値はあまりないでしょう。でも、アウグスティヌスの次の言葉には、ちょっぴり注目、です。

私が存在し、私がそれを知り、愛していることは私にとってもっとも確実である。……私が欺かれるなら私は存在するからであり、存在しない者は欺かれることもありえない。だから,私が欺かれるのなら、私は存在するのである。

これ、デカルトの「我思う故に我あり」と基本的には同一の背理法。あれはデカルトの発明ではなかったようですね。

アウグスティヌスは、「真理は人間の内部に宿っている」と述べているのですが、これをフッサールが引用したことを、同書の著者は以下のように批判的に述べています。

「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている」という言葉を、フッサールがみずからの、ほとんど最後の思考を系統的に展開しようとした遺稿の末尾に引用している。世界を取り戻すためには、世界の存在をまず判断中止によって中断しなければならない、と説いたそのあと、いみじくもデカルトの名を冠した論考のおわりに、である。フッサールの、この引用は、フッサール自身の立場について誤解を招く。フッサールの現象学が、意識の「内部」を問題としていたように響くからである。

これはどういうことでしょうか? フッサールの現象学は、外界を捨象した、内省に基づく純粋心理学であり、まさに「意識の内部を問題としていた」ものと私は理解しているのですが。このあたりは、以前のブログブリタニカ草稿を読んだときに議論いたしましたので、ご興味のある方はご参照ください。

まあ、この疑問につきましては、同じ著者の下巻がフッサールを扱うようですから、どのような解釈が正しいのか、いずれ検討する機会もあるでしょう。


その他、昨日のブログで、時間に関する説明が欠けていたように思いましたので、ここに追記しておきます。

まず、三次元空間に時間軸を加えた4元時空、という観点から時間を考えますと、これは座標軸の一つであり、4元時空とは、動きのない、凍りついた世界なのですね。

もちろん、時間軸とその他の空間軸は、いくつかの点で異なっております。

まず第一に、空間軸を実数で測量するなら、時間軸は虚数で測量されなければなりません。これは、虚数時間の物理学というテーマで、このブログで散々議論したところです。

第二に、空間軸には方向による区別ありませんが、時間軸には方向による区別があります。過去と未来は、水の中にインクをたらしたとき、それが徐々に広がっていく方向が未来、という形で識別することができます。一般的にいえば、エントロピー(無秩序さ)増大の法則(熱力学の第二法則)というものがありまして、より無秩序に向かう方向が未来、ということになります。

第三に、人の意識は、時間方向に一律に移動しており、過去については知りえるのですが、未来は確率的にしか知ることができません。このブログでも散々議論しておりますように、先週の日経平均の動きはチャートをみれば一目瞭然なのですが、この先の相場の動きは、予想するしかないのですね。

さて、4元時空はどうやらこの世界の真の姿であるようなのですが、そうしますと、世界とは、実は凍った存在である、ということになりまして、夢も希望もない世界、ということになりそうな気もするのですが、この結論は少々気が早すぎます。

真実の世界と、私たちにとっての世界、というのは、実は、異なっております。

たとえば、私は時々宝くじを買いまして、ネットで当選番号をチェックするのですね。で、チェックする直前といいますのは、実は、当選番号は既に決定しております。しかしながら、私にとりましては、この宝くじ、チェックを完了する時点まで、ひょっとすると1億円があたっているかもしれない宝くじなのですね。時間の後先、という点は、実はそれほど重要なポイントでもありません。

同様なことが、昨日述べましたシュレディンガーのネコの思考実験についても言えまして、実際には、ネコは死んでいるか生きているかのいずれか一方なのですが、実験者がそれを知りえない間は、生きているとも死んでいるともいえない、強いて言うなら、生死が重なり合った状態、としか言いようがありません。そしてこれが、実験者にとりましての真実、であるわけです。

さて、シュレディンガーのネコの実験を少々拡張するとどうなるでしょうか。箱の内部にテレビカメラを設置し、この映像をネットで流したらどういうことになるでしょうか? ただこれだけでは、知人にネコの状態を見てもらったのとなんら変わりはないのですが、ネコの死亡時刻予想を当てる、賞金つきの一大イベントとした場合はどうなるでしょうか。

まあ、猫を殺す、などといいますと、ネットで叩かれるだけで終わってしまうかも知れませんから、ネコに扮した有名タレントを箱の中に入れて、頭の上のところに水で膨らませた風船をセットし、放射性同位元素から出た放射線がガイガーカウンターを鳴らしたら、針が動いて風船を割る、という仕掛けが妥当なところでしょう。

で、賞金は少なくとも1千万円、電話もしくはネットで放送時間中に投票を募り、時間内に割れなかった場合は割れないに賭けた人に抽選で、割れた場合は、割れるに賭けた人で予想破裂時刻に最も近い人の手に賞金が渡る、というルールです。

一見、ばかばかしいお遊びに見えますが、なにぶん、これはれっきとしたシュレディンガーのネコの実験であり、量子力学が正しければ、タレントは、水浸しである状態と、そうでない状態の重なり合った状態となることが、コペンハーゲンの物理学者たちによって予想されているのですね。ま、そのあたりのことを延々と説明したあとで、この実験をやれば良いのではないでしょうか。

結局のところ、実験をした人が知ろうと知るまいと、マスコミで流してしまえば、ネコ(タレント)の状態は瞬時に社会の知るところとなり、状態は確定します。

さて、ポイントは、この実験を説明した科学者および何人かのゲストには、この実験がどうなったかということを番組終了間際まで教えません。この人達にとって、タレントの状態がどうであったのか、インタビューすれば、彼らにしてみれば宙ぶらりんの状態。コペンハーゲン解釈が、ここでは成り立っているのですね。

結局のところ、状態、というものは精神的主体が判定するものであって、精神的主体がその情報を得て、始めて確定するものです。その精神的主体は、実験者である場合もあれば、知人である場合でもあれば、その他大勢の人達の場合もあり、また、社会という、自然人たる一個人とは多少おもむきを異にした、精神的主体である場合もある、ということでしょう。

そしてもう一つ大事なことは、知らないことについては語りえない、という原則でして、仮に生死が確定していようが、それを知るまでは確率的にしか議論できない、ということが大原則となります。

ホィーラーの実験につきましても同じことが言えまして、光線が巨大重力恒星のどちらの側を通過したのか、などということは、知りえる術がないならばそれは確率的にしか語りえません。

同じことが未来についても言えるわけで、仮に世界が凍りついた存在であるとしても、私達の精神が、時間の流れの中を未来に向かって突っ走しる形で世界を観測しており、未来の真実の姿を知りえないのであれば、未来は確率的にしか語りえない存在。言葉を換えれば、未来は無限の可能性を秘めた存在である、とみなすのが正しい、ということになります。

まことに、子、怪力乱神を語らずが正しい立場、であります。東洋の思想も、隅におけたものではありません。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。