今度は、シュレディンガーの精神と物質をご紹介いたしましょう。なんか、似たような本を最近読んだばかりですが、こちらはあの波動方程式のシュレディンガーです。
1. 世界と主体
シュレディンガー、もちろん皆さん良くご存知の物理学者なのですが、その後、哲学に関心を向け、最後には、仏教的世界観に到達した様子。この本は、その途中の過程を紹介するものでして、物理学を離れて哲学的考察を進めた、その内容について書かれた本です。
ふうむ、このブログのテーマにぴったり。早速ご紹介を始めましょう。まず、出だしで次のように述べます。
この世界は、私たちの感覚や知覚や記憶によって形成されています。世界をそれ自体客観的に存在するものとみなすのは、確かに都合のよいことでしょう。しかし世界が単にそこに存在するというだけでは、私たちの前に現前しているということにはならないのです。そうなるためには、この世界のある特別な部分に生じるきわめて特異な事柄、すなわち私たちの脳で起こるある事象が必要なのです。私がこう申しますのは、以下の疑問に答えるという、まことに特別な意味合いにおいてであります。それは、この脳の事象を他のものと区別すべき特性は何なのか、またどのような特性に基づいて脳が世界を現前させているのか、という疑問です。……
おそらく合理主義者はこのような問題を、即座に次のように処理しようとするでしょう。……意識は、有機的に活動する物の中で生ずるある種の事象、すなわちある種の神経作用に基づいているのだという理解です。……
このように問題を片付けようとする人に対しては、その世界像には[現実との]とんでもないギャップがあるのですよと言わざるをえません。なぜなら神経細胞や脳の発生は、有機体の変化のなかで、その意味と重要性とをよく理解することのできるまったく特殊な事象だからです。……
はたして[脳の発生という]高等生物の進化におけるこのまったく特殊な変化は――ひょっとすると起こりえなかったものなのかもしれませんが――世界を意識の光で浮かび上がらせるために必要な条件だったのでしょうか。そしてこのような考えを信じる覚悟が私達にありましょうか。もしそのような変化が起こっていなかったとしたら、世界というこの劇は、観客のいない空席を前に演じられていたということになるのでしょうか。つまり言ってしまえば、世界は存在しなかったということになるのでしょうか。だがそれは、世界像の破綻ではないかと私は思うのであります。
ややっ、ここにも出てきました、人間原理。ハルヒィ~、なんて言いたくもなりますね。
まあ、私に言わせてみれば、人間を観客といたしましても、人間が誕生しなかったところで、宇宙の現象は観客のいない劇場で演じられていた、というだけの話のような気がいたします。観客がいようがいまいが劇は演じられるわけですから、世界の存在に、人がいようといまいと関係のない話だと思います。
ま、客がいないのにばかばかしいと、宇宙が劇を演ずることを止めてしまう、なんてことがあれば話は別、なのですが、まずそんなことはありますまい。そもそも、人類誕生の前に宇宙が存在しないのであれば、人類の誕生もなかったわけで、鶏と卵の問題よりも答えは簡単。人類の誕生よりも宇宙が先にあったことに、まず間違いはないのですね。
しかし、出だしからこんなたくさん引用してしまうと、先に進めませんねえ、、、
2. 客観化の原理
と、いうわけで第3章、客観化の原理、に進みましょう。ここで客観化のために必要な、二つの原理にシュレディンガーは言及します。第一の原理は「自然は理解可能だということ」、第二の原理は「真実世界の仮定」、でして、後者に関して、シュレディンガーは次のように述べます。
これは、自然の複雑な問題に精通しようとして私たちが用いる、ある種の簡略化に等しいと、私は主張したいのであります。私達はこのことに気づかずに、またこれを正しく系統だてることをせずに、理解すべき自然の領域から認識の主体を排除してしまっているのです。そこで私たちは人格ともども、世界には属さない傍観者の一部分へとあと戻りすることになります。まさにこの処置によって、世界は客観世界となるわけです。
このあたりの指摘は、まさにシュレディンガーの非凡なところです。精神的主体を排除してしまっては、量子力学の問題も解決しない、ということに関しては先日のこのブログでもご紹介したこと。まあ、量子力学に関しては、私などより、シュレディンガーの方が良くご存知であろう、とは私も思いますけどね。
でも、シュレディンガーの関心は、観測問題ではないのですね。彼はこう続けます。
第一に、私のからだ(これに私の精神的活動が、直接かつ緊密に結びついております)は、客体(私のまわりの真実世界)の一部分をなしているのですが、この客体を私は、感覚と知覚と記憶に基づいて描き出しているのです。第二に、他の人たちのからだもまた、この客体世界の一部分をなしています。……私はこの領域にあるものを、私のまわりの真実世界を部分的に構成する客観的な存在だと考えたくなってしまいます。……
第一の矛盾は、右のような世界描像は無色で冷たく、音のないものだと納得する、この驚くべき現実であります。色も音も寒暖も、すべて私たちの直接の感覚なのです。これらの感覚が、私たちの精神的人格を取り去った世界のモデルに欠けているというのは、ちょっと驚きです。
第二の矛盾は、精神が物質に作用を与え、物質も精神に作用を及ぼす領域を探すという、実りのない探求であります。
ふむ、このあたりまで来ますと、シュレディンガーの世界観の問題点が明らかになってまいります。
これは、デカルトの人体機械論と、心身二元論の問題と同じです。二百年の時を隔てても、あの英俊のシュレディンガーにして全然進歩がない、という点が非常な驚きであるのですね。
3. 私の理解
というわけで、私が思うところの正解につき、以下述べておきましょう。
まず第一に、自然科学的世界記述、あるいはその代表的一分野であります人体機械論は、客観的で正しいものと認めることができるでしょう。ここで、客観的とは、他者と共有できる世界記述、という意味です。
しかしながら、世界記述は一通りしか許されないわけではなく、何通りもの記述が可能です。たとえば、本を手にして、その内容を読むこともできるのですが、セルロースの薄片の上にカーボンが付着している、とみなすこともできます。後者が自然科学的世界記述なのですが、それしか許されないとなると、本など、読むことができませんね。
人体も同様でして、神経細胞の複雑な絡み合いが知性を生み出しているというのも事実なら、私たちが生き生きとした人生を生きているというのもまた事実でして、どちらの記述も世界の記述として正当なものなのですね。
で、普通は、本は読むものですし、細胞の塊というよりは、自分と同じ人格を持った存在として他人に接するのが当たり前ではないか、と思うのですね。
まあもちろん、物理学などやっておりますと、何でも物体としてみてしまう、ということがあるかもしれません。株をやっていると、なんでも相場に結び付けてしまうのと一緒で、ある種の職業病、といえるのかも知れません。
フッサールは、この普通の見方をする世界を「生活世界」と呼んでいるのですが、まず、枠組みとしては、複数の世界記述が可能である、という程度のことで充分なのではないか、と私は思います。
こちらで再読しています。