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物理学者の客観「20世紀の自然観革命」を読む

客観に関する議論を進めましょう。本日は、物理学者、和田純夫氏の「20世紀の自然観革命」を読んでみました。

1. 客観とは

この本、1997年の初版と、少々古いのですが、クオークから相対性理論からビックバンまで、物理学に関する深いテーマを扱った判りやすい本です。で、もちろん避けて通れないのが哲学的問題、ということになるわけです。

まず、客観につきましては、予想したことではありますが、以下のように書かれます。まずこれは、日本の物理学者の通念、といったところでしょう。

たとえば目の前にリンゴが見えたとしよう。ただ、ある一人の人が見ただけだったら、「そこにリンゴが存在する」というよりも、事実は、「その人がそこにリンゴを見たと認識した」ということにすぎないといったほうがいいかもしれない。しかし、誰が見てもそこにリンゴが見え、さらに、何らかの物体や電磁波などの信号をリンゴにあてると、そこにリンゴがある場合に期待される反応が必ず起きたとすれば、単にそういった現象の集合のみが客観的事実だというよりも、「リンゴがそこに存在する」ということ自体を(人間が見たと認識したかどうかとは無関係な)客観的事実と考えたほうが、はるかに合理的で明快なものの見方になる。

赤い色は私がつけたのですが、この部分で、人間精神とは無関係な、客観的事実としてのリンゴの存在を想定するわけです。

少々しつこいかもしれませんが、このような状況に対する私の考えを述べておきますと、「リンゴ」という概念は人の精神的働きの内部にあるものであって、人間精神と無関係に「リンゴ」が存在することはできません。

ただ、人間精神の外部に、一定の保存性、規則性を人間精神がその上に見出し得る「外界」が存在することは、少なくとも私は確信しているし、他者も同様の確信を抱いていると私が確信しています。そういう意味で、人間精神を離れては、外界は混沌と呼ぶ以外にないのですが、私がそこに「リンゴ」という概念を見出すように、私と概念を共有する他者もそこに「リンゴ」という概念を見出すなら、そこに「リンゴ」が存在するということは客観的な事実である、ということができるでしょう。

つまり、ここでいう「客観」とは、「あるじ(主)の観方」にとどまらない「お客の観方」としての「客観」でして、フッサールやポアンカレの言う、他者と共有できる観方としての客観と同じ意味で、私は「客観」という言葉を用いたいと考えているわけです。

2. 科学法則の客観性

さて、科学的な法則について、和田氏は次のように続けます。

では、科学の法則の客観性とは何だろうか。科学の法則は、リンゴなどといった物体ではないので、客観的存在といういい方には抵抗があるかもしれない。しかも科学の法則とは、単に自然界に起こる現象を見つめていただけでわかるものではない。たとえば、速度、質量、力などといった抽象的な概念をまずつくりだし、それらの概念と現実の現象との関係を定め、そのうえでそれらの量の間にどのような関係があるのかを示したのが力学の法則である。つまり、現実に起きている現象と力学の法則の間には、人間による多くの思惟が入り込んでいる。科学の理論とは、現実を解釈するうえでの、人間がつくりだした「色眼鏡」だという人もいる。

まあ、色眼鏡、とまで言ってしまうのはどうかと思いますが、科学の法則が、人間が作り出した概念世界に属する、ということは、和田氏自身も認めていることです。ところが、この話が次のように展開してしまいます。

たとえば、太陽の周りを回る地球の運動と、木から落ちるリンゴの運動を同時に説明できる色眼鏡は、そう簡単に見つかりはしないだろうと想像できる。それを発見したのがニュートンであり、その後、この法則は他の天体の微妙な動きや、また地上の物体のさまざまな運動にも、普遍的に、そしていかなる間違いもなく適用できることがわかった。そして、そのような法則は、他には見つからなかった。(20世紀になり、ニュートン力学には適用限界があることはわかったが、すでに述べたように、その適用範囲内での性向がつぶれたわけではない。)

このように考えれば、リンゴの存在が客観的事実であるのと同じ意味で、ニュートン力学の法則が客観的事実であると主張するのも無理ではないことがわかるだろう。つまり、誰が見たか否かにかかわらずリンゴは存在していたと考えるのと同じように、力学の法則は、人間がそれを考え出す前から、客観的に存在していたのだ。

これは少々変な物言いだと思います。そもそも、力学の法則は、質量などの種々の概念があって初めて論じることができるのですが、それらの概念は人間の精神的働きの内部に生じるものであって、「人間の存在とは無関係に法則が存在していた」という主張には無理があるように、私には思われます。

私流に科学法則を解釈いたしますと、「人間の存在とは無関係に存在する外界の上に、人間の精神は、誰の精神も同じように、種々の概念と力学法則を見出すことができる、そういう意味で、客観的な科学法則が存在する」、というわけです。

もちろんこれが可能なためには、力学にかかわる諸概念を、これらの人間精神間で共有しなくてはなりません。互いに用語の意味が統一されていなければ、力学の法則など語れないはずなのですね。

3. 神の視座

さて、この本は、物理学のさまざまな話題を扱っているのですが、このブログで注目しております、量子論における観測問題について、この本の著者がどのように記述しているかを、次に見てみましょう。

結論から言えば、和田氏は「多世界解釈」の立場を取ります。つまり、シュレディンガーの猫の思考実験において、猫が生きている世界と猫が死んでいる世界の二つの世界がある、というのですね。さらに、次のように書きます。

もし、量子論の対象ではない、状態のセットからはなれて世界を外から見られる、神のような立場の人がいたとすれば、その人は多数の世界をまとめて観察することができ、すべてが量子論の予言どおりに実現されていることを確認するだろう。しかし一つ一つの世界にとらわれている現実の人間にとっては、量子論の予言の一側面しか見ることができない。

量子論は、各世界の共存度の変化を計算できるという意味で決定論なのだが、一つの世界にとらわれている人間にとっては、それを確率論的に使わざるを得ないのだ。

ここにどうやら、物理学者の立場が鮮明に語られているように思われます。つまり、神の立場で議論しているんだ!

このような立場を推し進めると、唯我論、唯心論にもなりえるし、人間がいなければ宇宙もない、「人間原理」が生まれてくるのも、さほど不思議なことではないように思えます。

人間の存在とは無縁の客観的実在を想定いたしますと、さしあたり科学法則は確固とした客観性を持つように思われます。しかしながら、その物理法則を考えている科学者なり人々の精神的働きに考察が思い至るとき、これらの観測者の精神的働きに、神のごとき絶対性を認めることとなります。

このような思考の筋道が、以前ここでご紹介いたしました利根川氏の「唯心論」であり、ヴィトゲンシュタインの「独我論」に見て取ることができます。また、観測するものがいなければ宇宙は存在する意味を失う、という「人間原理」もそこから出てくるのでしょう。

これに対する私の解釈は、人は知り得ない事柄について語ることはできない、の一言に尽きます。

これはあたりまえのことのように、私には思われるのですが、何故にそのような考え方を世の物理学者がしないかが、私にとっては謎であるわけです。

4. 科学の限界

科学は、我々を取り巻く外界に対して人間の精神がおこなう「解釈」であって、その中に、質量やら加速度やらの「概念」が含まれています。これらはあくまで人間精神の内部に存在するものであって、人がどう考えようが、人間精神を離れた外界は、依然として混沌的存在であることに変わりはありません。なにぶん、人間精神がいかに自然現象を精密に描写しようとも、それが完全である保証はどこにもないのですね。

だから、シュレディンガーの猫の思考実験の場合、「猫の生死はわからない」というのが正しい解釈であって、「猫が生きている世界と猫が死んでいる世界が並存する」とか、「猫が生きている状態と猫が死んでいる状態が重なり合っている」とかいった解釈は、「物理学が世界のすべてを記述できる」という、物理学者の思い上がりの結果生じた、頓珍漢な解釈なのではないか、と私は思うのですね。

そもそも決定論的な古典物理学であっても、現実的には知ることができない世界が多々あること、ファインマンは「ファインマン物理学(5)」の中で次のように述べています。

世界中の、あるいは箱の中の気体のすべての粒子の位置と運動量とを知ることができれば、その後それがどうなるかを正確に予知できるということは、古典力学的には確かに正しい。したがって、古典的世界は決定論的である。しかし、その精度には限りがあり、例えば10億分の1の精度でしか、1個の原子の位置が分からないとする。このとき、その原子の運動とともに、それは別の原子に衝突し、10億分の1の精度でしかくわしくその位置が分からなかったために、その衝突後の位置の誤差はより増大する。従って、はじめはほんのわずかの誤差から出発しても、それは急速に巨大な不確定さに拡大される。

と、いうわけで、仮に量子論的な不確定さがなかったところで、現実的な世界では、すべてを知ることなどできず、ある種の確率の世界でしか、人間精神は自然界を描写できない、というわけです。

神の視座から世界を解釈する、なんてことは、まず、考えないほうがよいのではないでしょうか。