先週末、雨の神保町でたっぷりと買い込みました本のご紹介を続けましょう。本日ご紹介いたしますのは、「哲学者は何を考えているのか」です。
この本の表題を見まして、まさかギャグではあるまいか、などと考えながらニヤニヤしておりました。つまり、「哲学者は何を考えているのか」なる本を開けますと、そこに書かれているのはただ一言、「わからない」ではなかろうね、というわけなのですね。
もちろん、天下の三省堂の哲学書の売り場に、そんなギャグ本が並んでいようはずもなく、内容はまじめ一徹。英国で刊行されている一般向け哲学雑誌に掲載された二十数名の哲学者に対するインタビュー記事をまとめたものです。
1.プラグマティズムと形而上学
これを一読いたしますと、英米の哲学者の関心事が、宗教とフェミニズムに偏りがちで、どちらかといえば社会学に近いスタンス。哲学が本来扱うべき、と私が勝手に考えております形而上学に関する突っ込みは、少々浅い、との印象を受けます。
形而上学、という日本語は分かりにくいのですが、英語で「メタフィジックス」といえば分かりやすいでしょう。つまりは、物理学(フィジックス)に代表される科学がなぜ可能なのか、その限界はどこにあるのか、といった議論をするのがメタフィジックス、形而上学なのですが、これが英米の哲学者には苦手、ということなのでしょう。
やはり英米はプラグマティズム(実用主義)の国。原理原則よりも、社会をいかに運営するか、そしてそれによってどのように利益をもたらすかが社会的関心の的、というわけですね。とは申しましても、哲学の二文字を表題に含む書物で、形而上学を無視するわけにもいかず、同書の第5部は、ずばり「形而上学」。ここではこの内容についてみていくことにいたしましょう。
2. テッド・ホンデリックの自由意志と決定論
第5部の最初の登場人物は、テッド・ホンデリック氏で、「自由意志」と題しまして「決定論」について論じております。ホンデリック氏、決定論を受け入れつつも、自由意志の存在を否定できず、確固たる結論には至っていない様子です。
決定論に対する私の考え方は簡単でして、一つの変わらぬ真実があるとすれば決定論は真、というもの。何しろ明日の真実が本日も変わらぬ真実であるなら、未来は一つしかないのですね。また、時間軸を空間座標と一体のものとして扱う4元時空という捉え方は、今日の物理学では常識となっているのですが、4元時空の世界では、時間も座標軸の一つ。運動を表す速度にしてから、4元時空では局所時間、すなわち時間方向の単位ベクトルなのですから、4元時空の世界は凍った存在、ということになります。
しかし、「人は知りえないことを語りえない」という原理を、我々がものを考える際には忘れてはなりません。もちろん、人はなんだって語れるのですが、知りえないことを語ることは、単なる想像上の話であって、与太話でしかありません。未来が仮に決定していようが、我々がそれを知りえない以上、決定論を語ることは、学問的には意味のない行為なのですね。
卑近な話、今日買った宝くじが当たっているかどうか、当選番号を調べるまでは分からない、というわけです。これが仮に、当選番号がとうの昔に決まっていたとしても、例えばそれが誰にも見えない金庫の仲に保管してあるなら、決まっていないのと同じこと。量子力学的不確定性を持ち出す以前に、知りえないことは語りえない、というヴィトゲンシュタイン的テーゼを受け入れるしかありません。
もう一つ、自由意志の問題は、我々が複数の世界観を持ち得る、ということに思い至れば解決する問題で、我々の思考は、脳内のニューロンの複雑な働きであって、自然科学の法則で説明される単なる自然現象であったとしても、我々が世界を一通りにしかみてはいけない、という縛りがない限り、自由にものを考えればよいだけの話。
まずこれは、漫画を読んでみれば、簡単に納得がいく話でして、たいていの人は漫画の中に豊かな物語を見出しているのですが、それが実は、束ねられたセルロースの薄片に付着したインクに過ぎないことを自然科学は教えている、という事実を知ってしまったところで、漫画をインクのしみとして理解しなければならない、ということにもなりますまい。
人間の精神的働きもこれと同様、自然科学の対象でありますニューラルネットワークの作用とみなすこともできれば、欲望渦巻くどろどろとした世界の一部と考えることも、全く矛盾する話ではないのですね。
3. ジョン・サールの実在論
次に登場いたしますのが、最近出ました「マインド―心の哲学」を書かれているジョン・サール氏。この書物につきましては、以前のブログでご紹介いたしましたが、私の感想を一言で言えば、なんだかなあ。
「実在論」と題しますこのインタビューも、サール氏の主張は少々おかしなところがあります。例えば、以下の部分は、以前ご紹介いたしました。物理学者の客観認識と同様です。
そこで例えば、ある特定の場所で会うことに同意したとすれば、そのとき私たちは、私たちとは独立に存在する実在〔すなわち、話し合いの場という実在〕が存在するということを、当然のこととして前提しているのだという考えを、私の哲学の出発点としたいのです。
ここでいう「ある特定の場所」とは、具体的な地名なり特定のビルの一室というわけなのですが、同意の際に前提となっているのは、話し合っている双方が同じ概念を持っている、ということに過ぎません。もちろん、双方が同じ概念を持ちえるのは、双方の感覚に同じ印象を与える外界が存在するからなのですが、外界それ自体は、名前もなく区分もない存在に過ぎないのですね。
4. ジョン・サールの主観・客観概念
もう一つの問題は、主観と客観にかかわる問題で、サール氏の認識によれば、外界に関わる概念が客観、体内に起源をもつ概念が主観、という捉え方をしている様子です。「山々は客観的な存在様態を有しており、痛みは主観的な存在様態を有している」といった捉え方ですね。しかし、痛みにしたところで客観的な存在たり得ます。そうでなければ痛み止めの薬、などというものは存在し得ません。
これは、英語の客観、すなわち「オブジェクト」という言葉が、「対象」という意味も有することからくる混乱ではないかと思います。フッサールは、以前このブログでもご紹介しましたように、このような意味での客観を否定し、他者と共有できる主観、すなわち、間主観性(相互主観性)の上に「客観」を再定義しているのですが、このような定義が妥当ではないか、と私は思います。
ちなみに、このブログでも以前ご紹介しましたが、東洋の言葉で言う「主観」と「客観」は、ホストの見方とゲストの見方に対応しており、自分自身の見方が主観であるのに対し、第三者の見方が客観、という意味に解釈されます。これはフッサールの定義する客観と重なっているのですね。
5. ジョナサン・レーの「客観」
第5部の最後の論者はジョナサン・レーの「実在論と反実在論を超えて」と題するインタビューです。この中で、客観に関して、ローティの言葉を引用して次のように述べます。
私たちは客観性でなく、間主観性について語るべきである。
これは全く当を得た指摘なのですが、レーにしても、なかなかその世界まで抜け出してこないとの印象を受けます。フッサールの時代から1世紀を過ぎた今日、もう少し明確に形而上学を語る人が現れないものなのかと、どうも、隔靴掻痒の印象を受けるインタビュー群ではあるのでした。