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カントの「プロレゴーメナ(序説)」を読む

以前のこのブログで、西田哲学に関して考察を加えた折、フッサールが行った客観の再定義に近いことをカントが行っている、ということを論じました。

客観の再定義は、このブログで行っております哲学的考察の、一つの中心的テーマですので、このあたりで、カントの哲学につきましても考察を加える必要があると思います。

そこで、本日は、カントの「プロレゴーメナ」を読むことにいたしましょう。プロレゴーメナ、序説、といいますのは、カントの主著「純粋理性批判」に対する筆者自身による解説書、といいますか、要約本、のような存在でして、忙しい現代人には大変にありがたい本、ではあるのですね。(2016.6.8追記:岩波文庫版のプロレゴーメナはこちらです。このブログでは、前記中公クラシックス版から引用しております。)

そのカント、ですが、デカルトとフッサールのちょうど中間の時代に活躍された方でして、物理学との関係でいいますと、ガリレオとデカルトが、アインシュタインとフッサールが、それぞれ同時代の人であるのに対し、カントはニュートンが活躍した直後の時代の方でして、ニュートン力学が華々しい成果を納めた啓蒙の時代に活躍された方なのですね。

そういえば、カントの本はもう一冊、「啓蒙とは何か」も読みましたが、今の時代から考えると、相当に問題のある発言をされる方です。例えば、以下の部分など、フェミニストには見過ごせない一文でしょう。

大方の人々は、自然の方ではもうとっくに彼らを他者の指導から解放している(自然的成年)のに、なお身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、他者がしたり顔に彼等の後見人に納まるのを甚だ容易ならしめているが、その原因は実に人間の怠惰と怯儒とにある。未成年でいることは、確かに気楽である。……大多数の人々(そのなかには全女性が含まれている)は、成年に達しようとする歩みを、煩わしいばかりでなく極めて危険であるとさえ思いなしているが、それはお為ごかしにこの人達の監督に任じている例の後見人たちの仕業である。

全女性」とまで言い切りますかねえ、、、まあ、200年前の人の言ってること、日本では江戸時代の人が言っている話ですから、なんなのですが、、、

それはさておき、カントの記述によりますと、私が「外界」と呼ぶもの(カントによれば「物自体」)と我々の意識との関係は、私が考えているものとほぼ同一です。

第1部の注2で、カントは次のように書きます。

私が言っているのは、物は我々の外にある感官の対象としてわれわれに与えられるが、ただし、物がそれ自体としてどんなものかについてわれわれは何も知らず、ただその現象、すなわち物がわれわれの感覚を触発するときにわれわれのうちに引き起こす表象を知るだけである、ということである。

だから、私はもちろん、われわれの外に物体があること、つまり物があることを認める。……この表象に物体という名をつける。したがってこの物体という言葉は、われわれには知られないが、それにもかかわらず現実にある対象の現象を意味するだけである。人はこれを観念論と名づけることができるだろうか。いや、まさしく観念論の反対である。

これを私なりに解説いたしますと、われわれが知覚により物の存在を認識した、というとき、われわれが意識しているのは、われわれの精神的機能の内部に形成された物の個別概念(表象)であって、物そのものではない、というわけですね。

もちろん、知覚の彼岸に、その知覚を呼び覚ます、何らかの対象物が存在することは認めるのですが、われわれが知りえるのはわれわれの意識が捉えたものだけであり、われわれの精神の内部にある「物の概念」こそが、われわれが知りえる「物」のすべてである、というわけです。

次に「客観」について、カントは次のように述べます。

そこで、客観的妥当性と〔すべての人に対する〕必然的な普遍妥当性とは相関概念である。そして、われわれは客観自体を知らないにしても、ある判断を共通妥当的、したがって必然的と見なすとき、まさしくそれによって客観的妥当性を意味しているのである。

と、いうわけで、カントにおいても、他者にも受け入れられる「普遍妥当性」を客観の基礎に据えているのですね。

カントの場合、上の引用部にも一部見られますように、主観と偶然、客観と必然が強く結びついているのですが、この結びつきはどうでしょうか。まあ、「芸術的必然性があれば脱ぎます」などという大昔の某女優の言葉を思い起こして、監督の主観(偶然的ワガママ)だけでは脱がない、客観的理由(必然性)が必要なのよ、という意味もあるかと、妙にカントに同意しそうにもなるのですが、、、

ともあれ、以前このブログでご紹介いたしましたポパーの3つの世界に対応する世界が、カントの哲学からも読み取ることができます。これを整理しますと、次のようになります。

第1の世界:物自体の世界。知覚の彼岸に確かに存在するが、それ自体をわれわれは知りえない世界。

第2の世界:主観の世界。自らの精神が、その内部に構成した世界。

第3の世界:客観の世界。他者にも受け入れられる普遍的妥当性の世界。

これらの世界分類は、およそフッサールの現象学的世界観においても同様であり、このような世界の把握は、今日の哲学において、一般性を有するのではなかろうか、と思います。

それにしても、「われわれは客観自体を知らないにしても」という言葉も意味深ですね。(この文でカントが意味する「客観」とは、「対象」の意味、すなわち「物」と同義である可能性もあるのですが、)人が知っていると考えていることは、実は主観なのでして、客観というのは、物自体と同様、各人の精神の外部にあるのですね。

もちろん、人が客観について語りえるのは、各個人の精神的機能の内部に、客観に対応する知識体系を有しているからでして、主観の一部に客観がある、換言すれば、客観の不完全なコピーを各人の精神的機能の中に持っているからに他なりません。

で、しからばその客観の原本はいったいどこに存在するのか、といいますと、これも概念を扱う以上、主観と同様の精神的機能の内部に保持されているはずであり、個人の外部に存在する精神的機能は社会に求めるのが妥当である、と私は思います。

ポパーもこれに類すること(文化体系の世界が持つ自律性と超越性)に言及しております。人間社会は、社会固有の情報処理機能を有しており、至る所にみられるコミュニケーション活動を通じて、さまざまな概念を交換することで、社会固有の概念、価値観、倫理観を形成しております。これらが客観と呼ばれるにふさわしい、と私は考えています。

このあたりまでくると、だいぶカントを離れてしまうのですが、新しい形而上学(メタフィジックス)は、次のような形になるのではなかろうか、とその姿がおぼろげに浮かび上がってくる次第です。

1.外的世界、主観世界、客観世界の3世界を区別して扱うこと。
2.科学は、客観世界の概念による外的世界の記述であること。
3.科学の立場においては、知り得ないことを語り得ないこと。

これらをテーゼとして立てた上で、先日のブログでご紹介いたしました論理展開をいたしますと、決定論と自由意志の問題や、時間に対する概念も明瞭な理解が可能になりますし、量子力学における観測問題にも(知らないだけ、という)スマートな解が与えられ、人間原理も、きっちり、否定することが可能となるものと思われます。

なにぶん、外的世界は人の存在とは無縁に存在するものですし、科学は客観世界に属するもの。これで人間原理は否定され、知り得ないことを語り得ないとの縛りにより観測問題も解決するのですね。

さらに、外的世界をミンコフスキー流の4元時空と解釈すれば、世界は凍った存在になるのですが、われわれが未来を知り得ない以上、これを確定したものとしては語り得ず、自由意志は厳として存在いたしますし、確率的にしか語り得ない未来であれば、そこには無限の可能性が残されている、とみなすのが妥当なのですね。

ふうむ、おおよそのメタフィジックスの全貌が明らかになってきた様子です。しかも、そこにはさほど新しいことがありません。

3つの世界につきましては、カント、フッサール、ポパーがいずれも類似した概念を述べておりますし、科学が客観世界に属する、なんてことは常識、というものでしょう。

また、知り得ないことは語り得ない、というテーゼにしたところで、反証可能性を科学の要件としたポパーと、言っていることは同じことですし、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とのヴィトゲンシュタインのテーゼ(7)とも共通することなのでしょう。

と、いうわけで、長々と進めてまいりましたこの考察も、どうも面白くもない結末に至りそうなのですが、それにしては、最近の物理学者も哲学者も、ヘンなところで悩んでいるような気もするのですね。

さて、どうしたものでしょうか、、、