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ヒトの群知能は社会の精神的機能である論

このブログで何度か、社会はそれ自体が一つの精神的機能を持つ、という主張をいたしました。詳細につきましては、(1),(2), (3), (4)などに詳しく書いたのですが、簡単にいいますと、ヒトはそれぞれが精神的活動をすると同時に、さまざまなコミュニケーション手段により他者と概念を交換しており、その結果、人間の集団である社会も、ある種の精神的活動をしている、という主張です。そして、「客観」の正統な定義と私が考えております「間主観性」、すなわち他者と共有された主観といいますのは、実は、社会の主観である、という立場を取っております。

この話を久々に蒸し返しますその理由は、少し前にこのブログでご紹介いたしました、ポスト・ヒューマン誕生という本の中に、群知能という概念があったからです。

群知能といいますのは、例えば、昆虫のアリに顕著に見られる現象で、個々のアリはあまり賢くない行動をしているのですが、アリの集団全体としてみると、実に見事な賢い活動をしている。つまり、アリの群れとしての知能は相当に高い。その群れとしての知能を群知能、と呼びます。

先日ご紹介いたしました本では、これをロボットに応用しよう、という考えを述べておりまして、個々のロボットに搭載された人工知能が限られた能力しかなくても、多数のロボットが連携すれば、全体として高度な知性も発揮できるのではないか、という考えによります。

まあ、それはそれで良いのですが、アリでみられる現象なら、同じことが人間において生じていても何ら不思議はない、と私は思うのですね。なにぶん、人間も集団で活動しているわけですから。

で、人間の集団に群知能が認められるのであれば、人間社会も精神的機能を持つ、といえるわけでして、私の先の主張に、完全に一致するわけです。

このような考え方は、至極あたりまえのように、私には思われるのですが、あまりこういう考え方を聞きません。というよりも、主観、客観について、盛んに議論されているのですが、社会の主観が固体の客観である、などという主張にも、とんとお目にかからないのですね。

まあ、これはある意味、無理もないことかもしれません。なにぶん、固体の知能と群知能ではレベルが違いすぎます。アリ社会全体の知能を個々のアリが知りえないのと同様、人間の群知能も、群れを構成する個々人には知りえないとしても、何の不思議もありません。

しかし、人間は自分の能力を超えた存在を想像することもできます。それを完全にトレースすることはできないにしても、およその状況は把握できるはずですし、それがおよその状況である、ということまでも理解することができるのですね。

人間の社会的活動に際しては、群知能が機能している局面も多々あるものと思いますし、多くの人は、集団での智慧の働きに気づいており、これを積極的に利用しようと考えております。

例えば、何かの機械を設計する際も、機械エンジニア、電気エンジニア、ソフトウエア担当者、材料屋、などなどが集まって、それぞれの智慧を出し合いながら行うことが一般的です。

こういった開発・設計チームを運営するためにも、ヒトの集団が群知能をいかに発揮するかということに関して、粗々のイメージを持っている必要があるでしょう。

あるいは、組織経営も、実はヒトの群知能をいかに発揮させるか、という問題であり、経営学はヒトの群知能研究である、とも言えそうです。

と、いうわけで、ヒトの群知能という概念、あるいは、人間社会の持つ精神的機能については、現在でもある程度認識されているはずなのですが、これにつきましては、より一般的な考察の対象となるべきであると思う次第です。

また、このような概念が一般的になりますと、主観と客観をめぐる長い議論にも、やっと決着がつくのではなかろうか、と私は考えております。