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村上春樹「海辺のカフカ」を読む

2週間ほど前に、温泉宿で下巻だけ読みました「海辺のカフカ」ですが、上巻も買い求め、何度か読み直しましたので、お約束どおり感想を書くことといたします。

1. 海辺のカフカの基調

まず、海辺のカフカ、ないし村上春樹につきましては、数多くの論評がありますので、同じようなことを書いてもいたし方ありません。このブログといたしましては、あまり語られていなさそうな切り口で書いてみたいと思います。と、いうことは、相当に偏った見方である、ということをあらかじめお断りしておきます。

なお、ブログをサーチしたところ、このレビュー(リンク切れ)が比較的良くまとまっております。内容をすばやくつかみたい方にはお奨めのページです。

さて、本論にまいりましょう。まず、探偵小説などでは、ダマシはあるものの、何が事実であって、何が事実ではないか、きちんとした切り分けがなされています。まあ、普通の小説といいますものは、すべからくそうであるのですが、この小説に限りましては、記述の解釈が何通りにもできる形となっており、どのようなストーリー展開とするか、その一部を読者の想像力に任せる形となっております。

この小説の基調和音は「想像力を欠いた狭量さ、ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム」に対する闘いであって、理想とされるのは、あえて言うならエピキュリアンの境地。ストア派とエピクロス派の対立、と読めばわかりやすいのかもしれません。

エピキュリアン、快楽主義者、などと呼ばれておりまして、世間一般には刹那的快楽を追求するプレーボーイ的印象が強いのですが、実のところは、心の平安を最高の快楽の境地とみなしており、大島兄弟の生き方がその代表格。音楽を愛し、書物を愛し、道具や衣服、小物にこだわり、想像力を愛し、自分の頭で考えることを何よりも重要視するのですね。

と、なりますと、村上春樹が読者に要求するのは想像力であって、この本のストーリーは読者みずからが再構成しなくてはいけません。そしてイェーツの言葉『夢の中で責任が始まる』を引いて、読者が再構成した物語に責任を持て、と言っているのですね。なんとも厳しい小説である、としか言いようがありません。

2. ストーリー

さて、ストーリーは、カフカ少年家出の顛末と、ナカタ老人とホシノ君の珍道中が、奇数章と偶数章で並列する形で進みます。カフカ少年の物語は、比較的、事実と超自然現象、妄想の類が明確に分離されているのですが、ナカタ老人の方は少々あいまいです。

ナカタ氏、少年の頃の戦時中に、事故で『あちらの世界』に迷い込み、文字を読む能力を失い、猫と会話する能力を身に付けます。この『事故』が、いったい何であったのか、という点に関しましてはあいまいでして、UFOの存在が示唆されている一方で、引率の女性教師のヒステリーをきっかけとした集団催眠の可能性も示されています。

あちらの世界とこちらの世界を繋ぐ入り口の開け閉めは、戦時中に一度あったわけですが、これがいかにして開け閉めされたのかは不明です。女性教師の夫を思う心がそれをなしたのか、とも読めそうですが、、、

小説冒頭に発生いたします大事件は、彫刻家、田村浩一氏殺害事件です。この真相が、少々わかりにくい表現となっているのですが、私は次のように解釈いたします。

まず、猫探し業を営むナカタ老人は、猫殺しのジョニーウォーカー氏を殺害するのですが、これは、ナカタ老人の意識の内部のみの話であって、現実は、カフカ少年の生霊が四国高松から東京都中野区まで飛んで殺害した、と私は読みます。

なにぶん、ナカタ老人の衣服に血液が付着していないのは、彼が現実には殺害を犯していない証拠です。一方、カフカ少年のアリバイは、生霊アリを前提といたしますと、脆くも崩れます。源氏物語で悪霊退散の護摩の香りが衣服に染み付いたように、父親を殺害した生霊の浴びた返り血がカフカ少年のシャツに染み付いたのですね。

では、ナカタ老人のストーリーは何か、といえば、これはメタファー。寓話としての殺人事件でして、カフカ少年の父親に対応いたします悪意の塊のようなジョニーウォーカー氏に、純朴なナカタ氏を対することで、カフカ少年の殺意を道義的に肯定する役割を果たしているのでしょう。

ナカタ老人が何故にこのような意識を持つに至ったか、ということをあえて説明するなら、カフカ少年の生霊が、感度の鋭いナカタ老人の意識に何らかの働きかけを行った結果、ではないでしょうか。まあ、作者もこのあたりの因果関係につきましては、あまり考えていないのかも知れないのですが。

困ったことに、生霊ナシという合理的基準で動く警察にとりましては、アリバイのあるカフカ少年を犯人とすることは不可能で、ナカタ氏を犯人とせざるを得ません。現実世界と物語世界のねじれがここに現れております。気の毒なのは、交番に出頭したナカタ老人に応対した警察官、ですね。

一方、ナカタ老人が現実にしたことといえば、魚やヒルを降らせたこと。ヒルはともかく、魚を降らせる必然性はないような気がするのですが、新聞にまで出ていた、となりますとこれは小説世界におきます事実としか考えようがありません。ま、佐伯さんのヒット曲の歌詞には魚が空から降るというフレーズがありましたし、そもそも、お話ですから何でもあり、なのですね。

3. 大団円

カフカ少年もナカタ老人も、最後にたどり着くところは佐伯さんが館長を勤める私立の図書館。佐伯さんも入り口の石を動かし、あちらの世界に行った方でして、その証拠には影が薄い。あちらの世界は、佐伯さんの願望が生み出した世界であるようにも思われますが、あちらの世界が戦時中から存在していたとすると、時間関係が合いません。まあ、生霊が時空を越えた存在であるということも考えられなくはありませんが。

高松を強烈な雷雨が襲った日、ホシノ君は石を裏返し、入り口を開けます。これからストーリーは急速に動きます。時空を越えた15歳の佐伯さんの生霊がカフカ少年の寝室に現れ、カフカ少年は佐伯さんに対する恋に陥ります。

カフカ少年は、現在の佐伯さんの生霊に続き生身とも交わった後、山小屋に行き、森に入ってあちらの世界を訪れます。ホシノ君は音楽に目覚め、人生に対する見方が変化いたします。

ついに目的の場所を発見したタナカ老人は佐伯さんに出会い、佐伯さんに委ねられた、彼女の失われた人生を象徴するファイルを川原で焼却します。最後の務めを終えた佐伯さんは、死亡し、あちらの世界でカフカ少年に出会い、彼をこちらの世界に引き戻します。

この小説におきます悪役、『想像力を欠いた狭量さ』云々の象徴であります、想像世界におきましてはジョニーウォーカー氏、現実世界におきましてはナカタ老人の遺体の口から這い出してまいりました大型のナメクジ状の怪物は、ホシノ君の活躍により入り口に入ることなく始末されます。

大団円は、亡き佐伯さんから『海辺のカフカ』の絵を遺贈されましたカフカ少年が、一つ成長して東京に帰るシーン。ほろ苦いながらもハッピーエンド、ということになりまして、この長大な小説は幕を閉じます。

4. 高松の現実

さて、細かな点をいくつか。まず、この世界の高松で石を探しますと、まずでてくるのが『讃岐石』。サヌカイトとも呼ばれますこの石は、叩けばカンカンと澄んだ高い音がすることで知られておりまして、どこぞのお寺の入り口にもその大きい奴が置いてある、まさに入り口の石、なのですね。高松で『入り口の石』を探して、これにぶち当たらないのは少々おかしいような気もいたします。

次に、この小説の一つの魅力は、ホシノ君の軽妙洒脱な語り口。ファミリアのレンタカーを借りるシーンは抱腹絶倒ものです。目立たない車の代表格としてあげられましたファミリア、そのネーミングも小市民的センスの極みなのですが、同じマツダのロードスターもでてまいりまして、こちらはコダワリ派の大島さんの愛車。マツダもなかなか面白い会社ですね。

その他、カーネルサンダーズ氏、人でもなく神でもない、怪異として語られます。こちらは、ジョニーウォーカー氏と異なり現実の存在として小説中に現れます。この現実世界におきましても、高松あたりの風俗産業の呼び込みに、白いスーツの上下を着用した小太りの中年男性がいたりしますので、思わず、にやり、とさせられるシーンではあります。

カーネルサンダーズ氏、キャラクターもなかなか面白く、本作品をアニメ化する場合には欠かせない存在です。まあ、『海辺のカフカ』、小説の本筋は、佐伯さん、大島さんとカフカ少年との絡みが中心になるのでしょうが、アニメにするならば、ナカタ老人とホシノ君の珍道中を中心に据えるほうが受けがよさそうです。ま、『ばりんばりんのセックスマシーン』をどう表現するかは、少々難しいところですが、ブンガクである、ということで通して、原作どおりとするのも良いかもしれませんね。

5. 美学と倫理道徳の問題

さて、同書で扱っておりますテーマの一つのポイントは、倫理道徳の問題であるわけですが、「倫理道徳の問題についても自分の頭で考えるべきである」とは、そうそう簡単に肯定できる結論ではありません。なにぶん、カントによりますと、倫理道徳は「定言命法」でして、天下り的に、なすべきこと、なしてはならぬことが与えられます。これをあれこれ考える余地はないのですね。

一方、快楽主義者、エピキュリアンの立場は、定言命法を否定するプラグマティズムの立場に近いのですが、そこで重視されるのは美学です。実に、武士道の道徳も美学にもとづくものであり、ヴィトゲンシュタインも倫理は美学と同じである、とみなしております。

しかし、美学というものもたちが悪いものでして、個人個人で異なっています。大島氏が嫌悪する左翼の美学は、弾圧されても転向しないこと。頑迷なまでに思想を変えないことがサヨクの美学であり、道徳であったりするのですね。その他、軍の愚行も美学のなせるわざ。単に美学を肯定するだけでは、何も前には進みません。

結局のところ、美学にもアプリオリな枠が必要でして、大島氏の美学に最大限譲歩するならそれは懐疑主義。みずからの美学自体も、常に疑わなければならない、ということかもしれません。そして、懐疑主義それ自体は、疑うことの許されぬ、アプリオリな定言命法で与えられる、ある種矛盾した状況となります。

この矛盾した状況を許容するためには、超越論が必要でして、このブログでこれまでに議論したような、三つの世界、といった人の自然認識の枠組に関する思想が先立つ必要があるように思われます。

倫理、道徳の礎に関しましては、まだまだ考察が必要です。ハーバーマスは「討議倫理」などということを提唱しておりますが、こちらは少々難解で、まだ手をつけておりません。倫理、道徳につきましては、このブログの今後の課題といたしましょう。