本日プールサイドでこの本を読んでおりましたら、揺れました。まあ、たいしたことはなかろうと、そのあとも本を読み続けていたのですが、先ほど確認したところ、かなり大きな地震と。
柏崎市の刈羽、原発があるところでして、幸い放射能漏れもなく自動停止した、とのこと。ただ、余震もあるとの予報ですから、この先も万全の注意が欠かせません。
この原発、活断層があるのでは、との批判を無視して建設されたいわくつきの原発でして、ここで被害を出すようなことがありますと、東京電力は窮地に立たされます。
ちなみに私は、核エネルギーそのものには反対ではないのですが、現在の原子力行政や電力会社のあり方には大いに疑問を持っております。
なにぶん、政府にせよ電力会社にせよ、原発の安全性に中立的な立場で検討を加える、ということがありません。むしろ、核エネルギーの危険性の指摘を押さえつける傾向にありまして、原発の危険性を指摘する学者に有形無形の圧力をかける、なんてことも行われていたのですね。こんなやり方で造られた原子炉は、危なくて仕方ありません。
なにぶん、巨大なエネルギーはそれ自体危険なものですし、人体に有害な放射性物質も大量に扱われております。このような設備を管理する際には、非常に小さなリスクの存在も許されず、危険性を指摘する意見は、むしろ貴重な意見として尊重しなければいけないはずなのですね。
原子力発電の安全性は、原発が危険であるという反証の可能性を否定するプロセスを積み重ねることによって、多くの人に納得されるはずなのですね。その反証の機会を奪ってしまっては、原子力発電が安全であることを多くの人に納得してもらうことは、非常に難しいのではないでしょうか。
政府や電力会社が宣伝しておりました「原発は絶対安全です」という主張は、ある程度以上の思考能力がある人には、「原発は危険です」というメッセージとしてしか伝わっていない、喜劇的状況であった、ともいえるでしょう。
その後、さまざまな原発や再処理施設の事故、データ捏造などの不祥事が相次ぎますと、さすがに原発の危険性が多くの人にも認識されるようになりました。少なくとも、今日「絶対安全」などと言っても、信じる人は、ほとんどいないでしょう。
政府や電力会社の考え方も、おそらく変化はしているのでしょうが、それが表に現れない以上、危ないとの認識を変えるだけの理由が見出せません。柏崎刈和原発の地震リスクにつきましては、改めて検討する必要があるのではなかろうか、と考える次第です。
さて、「物理学と神」のご紹介とまいりましょう。
同書の初出は、東大出版会のPR誌に連載されました、どちらかといえば軽めのお話。神、といいましても、構えて読む必要はありませんが、神をめぐって発展いたしました物理学、哲学の歴史の、ある意味で、中核をついている、ともいえそうな話ではあります。
では、章を追って内容をご紹介することといたしましょう。
第1章「神の名による神の追放」では、神との関連で、物理学の歴史が語られます。
まず、キリスト教神学は、13世紀に至るまで、アリストテレスの自然学とは対立関係にありました。これが、トマス・アクイナスの「神学大全」におきまして、アリストテレスの宇宙体系(天動説)と調和したキリスト教神学となったということです。
次に、コペルニクスの地動説に対して、ルターやカルバン派といった宗教改革を進めていた一派は批判的だったのですが、ヴァチカンは許容していた、とのこと。それが一転、弾圧するようになったのは、ガリレオが最初。同書には記述がないのですが、天体望遠鏡で知りえた具体的事実に基づくガリレオの説が問題視されたのかもしれませんね。
次に、デカルトが登場いたします。デカルトは、神の存在証明を繰り返しする一方で、神の創造物を理解しようと務めます。その方法論、「デカルト主義」は、次の3点からなる、と同書はしております。
第1は「公理主義」、第2は「数学」の利用、第3は「保存則」、というわけで、数学と同様な基本法則に基づき、座標系を用いた代数式で世界を記述する、という近代的な物理学がここに誕生したわけです。
第2章「神への挑戦―悪魔の反抗」では、ラプラスの悪魔とマクスウェルの悪魔が紹介されます。ラプラスの悪魔はすべてを知る者で、物理法則により未来を全て予言する、とされます。一方のマクスウェルの悪魔は、分子をより分ける能力を持つもので、熱力学の第二法則(物が混ざる、熱は熱い側から冷たい側に流れる)を否定する存在です。ま、いずれも存在しないのですが、、、
第3章「神と悪魔の間―パラドックス」では、パラドックスの重要性が語られます。今日から見れば、単なる詭弁としか言いようがないのですが、無限という概念が確立していない時代には、無限に言及した論理はパラドックスとなります。逆にいえば、パラドックスの存在が、論理の枠を広げてきた、とも言えるわけです。
第4章「神のサイコロ遊び」と、第5章「神は賭博師」では、量子力学における不確定性理論に言及いたします。微視的な世界では、確率的にしか語れない、というわけですね。また、内容が少々混乱気味ですが、宇宙論(熱の捨て場)であるとか、カオス理論にまで話が飛びます。
第6章「神は退場を!-人間原理の宇宙論」におきましては、この宇宙が人間にとって実に良くできた世界である、ということと、観察されて始めて世界は意味を持つという、人間原理に話が飛びます。
まあ、これは、結果論である、と私は思うのですけどね。つまり、人間がたまたま生存できる宇宙だったから、人類が誕生して、その人間が、なんて具合が良いのだろう、と感心しているだけの話、だと思います。
第7章「神は細部に宿りたもう」では、対象性の破れが議論されます。また、フラクタルに話が飛び、相場の動きや損益などにも適用できると述べます。これは、同書の執筆時に、野依氏が光学異性体に絡んでノーベル賞を受賞したこと、当時流行の「複雑系」などがその背景にあるものと思われます。
第8章「神は老獪にして悪意を持たず」は、結論的な章でして、色々な難問が今に至るまで続いていることを紹介して、終っております。
さて、以上が同書の内容ですが、以下、私の感想を少々書いておきたいと思います。
まず、神と物理学、という取り上げ方は、非常に面白い点を突いてきたと思います。神の存在は、ギリシャの時代から20世紀の初めまで、常に物理学や哲学の発展に多大な影響を与えてきました。それは、あるときはこれら学問の方向性を与える一方で、あるときはあからさまな障害として作用してきたのですね。
ただ、それにしては、同書の扱いはいかにも軽い、との印象を受けます。あえて言ってしまえば「おちょくってる」。まあ、池内了氏、おそらくは信仰とは無縁の方、だからなのではないか、と思われる次第です。
しかし、神が実のところは存在しない、というとき、それでは、人間の心は存在するのか、命は存在するのか、と問われるとき、それらは情報処理装置として、あるいは複雑な化学反応の体系としてのみ存在する、と言い切れるものかどうか、これは相当に難しい問題であると思います。
確かに、唯物論に基礎を置く共産主義は、この言い切りをしておりまして、パブロフがソ連において非常に尊重されたのは、動物の脳が刺激に対する反応を学習する装置であることを明らかにしたからなのですね。
しかし、それだけでは、人は生きられない。人の心や生命といったものに、その物理的実在を超える価値を見出します。それが人間、というものなのですね。
私は前にも書きましたが、同じマンガを繰り返し読んでいたときに、あるとき突然それに気づいたのですね。つまり、マンガの本質は、紙の上にインクが付着したものに過ぎない、ということ。そんなものにも大きな価値を見出す、私自身に気が付いたのですね。世界には、物理的実在を超えた価値が存在する、これは私が経験的に得た確信、であるわけです。
だから、森羅万象の上に、それらの物理的実体を超える、意味なり、精神なり、価値なりを見出すことは、決して無意味なことではありません。
物理的存在と、人の心の中に思い浮かべた存在とは、実は似たようなものである、ということを、おそらく最初に指摘したのが、デカルトであった、と私は理解しております。
デカルトは、外界に存在するのはモノの広がりだけであり、その他の属性は、それを観察する人の心の中に生じる、と主張したのですね。そして、神も属性として存在する、とまで言い切っております。
このような観点は、実は、今日の物理学者からは欠け落ちているように思われるのですが、例えばデカルトの考案いたしました直角座標系は、それを思い浮かべる人の心の中に存在するものですし、公理主義の「公理」にしたところで、人の概念のなせる業なのですね。
一方、同書は触れておりませんが、スピノザの汎神論は、あらゆるものに神が宿る、という考え方であって、アニミズムにも通ずる思想ですが、これを一神教で語れば、宇宙全体が神である、ということでしょう。
これは、人体を人である、とする普通の考え方と対をなすもので、神の肉体を求めるなら、それは宇宙全体でしかありえない、ということになるものと、私は理解しております。もちろん、人の心と人体は、確かに密な関係があるのですが、イコールではないのですね。
まあ、それやこれやを考えますと、同書で語られております「神」は、さまざまな局面で物理学者が口にした「神」なる言葉、これを通して物理学について述べてみましょう、といったところではないか、という気がいたします。少なくとも、人々の信仰の対象としての「神」とは、少々異なる概念であるように思うのですね。
とはいえ、喩えギャグとしてではあれ、人が「神」という言葉を口にするとき、確かに神についての一抹の概念がそこに現れていることには変わりありません。そういう意味では、この本もなかなかに面白い本であった、といえそうです。