このところ、日曜日にいろいろな用事が入りまして、本をじっくり読むということができません。このため、毎週日曜日に書いておりますこのブログの社会と哲学をテーマとした議論も、少々突っ込み不足の印象を受けてしまいます。
その足りない分を平日に補おう、などと考え、本日より、表題の「メタ・フィジックス―自然科学はなぜ可能か」というテーマで少し書いてみようか、と考えた次第です。なんとなく書物の題名みたいですが、実在しない書物、まあ、このブログの一連の記事を集めれば、そんな感じの書物が浮かび上がってくる、なんてことになりましたら御喝采、といったところです。
さて、自然科学は、眼前の事物を人の存在とは独立な存在とみなしております。これは、「自然主義」とか「自然的態度」などと称される考え方でして、ある意味で、常識的な考え方であるといえるでしょう。
しかし、このような考え方をベースとする自然科学が現在抱えている問題の中には、自然主義的態度に修正を迫るものもあるように、私には思われます。
その一つは、量子力学における「観測問題」でして、人が観測することによって自然の状態が定まる、という結論を受け入れざるを得ない現象があります。これは、人の存在とは独立に存在する自然、という考え方とは矛盾するものであり、その矛盾を追求した結果、「宇宙は人が観測するのを待っていた」、「人間が観測する以前には宇宙は存在しなかった」という「人間原理」と呼ばれる極論も現れております。これをどう考えるか、という点が一つの問題です。
第二に、脳科学の進歩は、人の精神活動をニューロンの機能に帰着させる方向に進んでいます。少なくともこれまでのところでは、人の脳の中に超自然的現象は見出されておらず、人の精神活動が単なる物理現象であるという結論の一歩手前まで来ております。
このことが事実であるといたしますと、果たしてそのような現実を人は受け入れることができるのでしょうか。また、このような事実が常識となりましたとき、社会はどのように変化するものでしょうか。私は、空恐ろしい予感を感じるのですが、さりとて、脳科学の進歩を止める理由もなく、怪しげな宗教に走ることも、また別の意味での恐ろしさを感じます。
今日の科学万能の世の中、自然科学はすべての基礎となる真実とみなされているのですが、私は、それだけではなかろう、との思いを強く持っております。これは、以前のブログにも書いたのですが、同じマンガを繰り返し読んでおりましたとき、それほど熱中したマンガが、実は紙の上にインクが付着した存在であることに気づいたからです。つまり、自然科学的には、マンガはそのような存在なのですね。
しかし、マンガの価値は、紙やインクにあるのではない、これらを科学的に分析したところで、マンガの持つ価値には決して到達できないだろう、ということを悟ったわけです。
同じ考え方は、人の精神についてもいえるはずで、たとえそれがニューラルネットワークの物理現象に過ぎないとわかったところで、それは、マンガが実は紙の上のインクに過ぎないと言っていることと同じこと。このような科学的分析では、人間精神の持つ価値というものは、決して明らかにはならないであろう、といえるでしょう。
となりますと、自然科学以外のアプローチもまた重要であり、その基礎的な部分では、人の精神活動の一つであります、自然科学の探求も、このアプローチの中に含まれるのではないか、と予想したわけですね。
このような考え方の基本は、デカルト、カント、フッサールという一連の哲学者の思想の中に見出すことができます。それは、単純に言えば、次のようになるでしょう。
まず、自分自身の頭の中を自省すると、考えている自分がいることは確かである、といえるでしょう。デカルトの「我おもう故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」ですね。
次に、眼前の事物について考えてみますと、それは確かにそこにあるのですが、それが人間精神と独立に存在しているかと問われますと、これはなかなか難しい問題です。
と、いいますのは、例えば、私が今操作しているこのキーボードは、私が部屋を出て行こうと眠ってしまおうと、確かにここにあり続けるのでしょう。そういう意味で、人とは独立にキーボードは存在している、といえるでしょう。
しかし、それを「キーボード」というとき、その「キーボード」という概念は、私自身の精神の内部にあるものであって、キーボードという概念が眼前に存在しているわけではありません。あえて言うなら、人にキーボードという概念を抱かせる物体が眼前に存在している、ということになります。
一方、「人にキーボードという概念を抱かせる物体」を「キーボード」と呼ぶなら、確かに眼前にキーボードが存在している、といえるでしょう。しかし、こうなりますと、もはやそれは人間精神と独立に存在してるとは言えません。「人にキーボードという概念を抱かせる物体」も、「人とは独立に存在している」なら、そこにはもはや「キーボード」という概念は存在しえず、「何らかの物体」が存在している、としかいえないでしょう。
もちろん、「物体」といえば許されるか、といえばそんなこともなく、これも概念の一つ。あえていうなら「混沌」ですが、混沌という概念もまた人の精神が作り出したものでして、ここまでまいりますと、人は言葉を失うしかないのですね。
しかし、「人間精神とは無縁」という縛りさえ外してしまえば、難しい話は何もなくなります。つまり、「人にキーボードという概念を抱かせる物体」を「キーボード」と呼べば良いだけの話です。
実は、自然主義的態度とは、人が世界に接する際に、まず言葉にはならないさまざまな刺激を知覚を経由して受けとり、その人の精神的機能が、過去の経験や知識に照らしてその刺激を何らかの概念にあてはめ、それを眼前に存在する、とみなしている、といえるでしょう。
眼前に存在している物体(概念化された)とは、実は、人がその精神世界の中で、眼前に照射して作り出したイメージである、ともいえるのではないでしょうか。
つまるところ、人が見ておりますこの世界は、写真機のようなフィルムに結んだ像ではなく、まずはテレビカメラが外界の映像情報を取り込み、これをパターン解析して、さまざまな概念(例えば人だとか、りんごだとか、キーボードだとか)を抽出し、これをマーキングして改めてプロジェクタで眼前に投射した、その像を眺めている、というようなイメージで考えた方が、実情に近いのではないかとおもいます。
このような世界の認識は、人々が無意識のうちに自然に行っていることであり、それを否定する理由は何もありません。だから、自然主義的態度は、別に非難されるべきことでもないのですが、ただ一点、それは人間精神と独立に存在するものではなく、少なくとも、概念を含む場合には、人間精神の処理のアウトプットとして眼前の世界は存在する、というべきだ、ということなのですね。