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観測問題と自然主義的態度

前回は、自然主義的態度、すなわち外界の事物が人間の存在と独立に存在する、という考え方に多少の修正を加えました。これを纏めますと、つぎのようになります。

まず、人間の存在とは独立な外界の存在を認めます。これは、知覚を通して人の意識に現れる現象の原因として作用する存在です。これが人間の存在と独立である、と考える理由は、第一に、仮にその詳細を忘れていても見れば思い出す、手帳にかかれた文字のように、外界の事物には人間の存在を離れた保存性があること、第二に、同じ事物が他者の知覚にも私と同様に作用し、他者の意識に同じ概念を生じさせること、などによります。

その事物が何であるか、という解釈、概念へのあてはめは、私なり、他者なりの精神的働きのなせる業であり、概念をともなう事物が人間と独立に存在することはありえません。したがって、人間と独立に存在する外界は、区切りもなく、意味もない、単にそこにある、というだけの存在です。ただし、人がそれを見たとき、特定の概念を抱かせる原因となる事物が、人間の存在とは独立に存在する、ということはいえるでしょう。自然主義的態度は、このように解釈することで正当化されます。

このような前提をおきますとき、自然主義的態度に対して、一つの制限が加わります。これは、「人は知りえないことを語り得ない」という制限です。これはあたりまえの制限であるようにおもわれるかもしれませんが、人間と独立に存在する外界を語る場合、それが人の知り得ない事象であるならば、人はそれについて語ることはできない、という制限です。

この制限が加わる理由は、「人間と独立に存在する」のは「人がそれを見たとき特定の概念を抱かせる原因が人間と独立に存在している」にすぎないのであって、人がそれを見ないことが前提であるなら、それは区切りも意味もない、単にそこにあるだけの存在にとどまるしかなく、これそのものについて人は論評を加えることができない、という事情によります。

さて、自然科学が礎としております自然主義的態度にこのような修正をほどこすとき、量子力学の観測問題にも合理的解釈が与えられるのではないか、と私は考えております。以下、これについてご説明いたしましょう。

まず、観測問題とは何か、という点につきまして「量子力学入門」を参考に、簡単に解説しておきます。

量子力学では、物体の運動を波動関数ψで表します。ψの二乗(正確に言えば共役複素数との積)は個々の位置におけるその物体の存在確率を示します。ある粒子を観測するとき、観測されるまでの間は、その粒子は空間に広がる波動として解釈され存在確率のみを知ることができるのですが、観測された瞬間にその粒子の位置は一点に確定します。これを波束の収束と呼びます。

さて、波束の収束が引き起こす奇妙な問題、といいますか、パラドックスが数多く知られておりまして、まず有名な問題が「シュレディンガーの猫」と呼ばれる問題です。これは、中の見えない箱の中に、放射性物質と、それが放出する放射線を検出するガイガーカウンタと、ガイガーカウンタが動作したときに毒ガスを発生する装置と猫を入れておいた場合、中の猫はどうなったか、という問題です。

放射性物質の放射線の放出は量子力学的な確率の問題であり、これが観測されるのは、箱の蓋を開いて猫の生死を確認したとき。したがって、蓋を開く前の猫の状態は、波動関数的状態にあり、生きた状態と死んだ状態が重なり合った状態にある、と解釈するのがコペンハーゲン解釈です。

常識的に考えれば、猫は生きているか死んでいるかのいずれかであり、単に箱の中を見ていない以上、人は猫の生死を知り得ない、というだけの話でしょう。人が知り得ない事柄をあえて解釈しようとするから無理が生じるのであって、「人は知りえないことを語り得ない」という前提を受け入れれば、何の問題も生じません。

このようなことは量子力学の関わらない状況でも生じまして、たとえばよく切られたカードが机の上にあるとき、その一番上の札が何であるか、という問題でも事情は同じです。カードを見るまではその札が何であるのか、人は知りえず、単に52枚の札のうちのどれか、という確率の問題として扱うしかありません。シュレディンガーの猫の問題も、これと同じ問題なのですね。

もう一つの観測問題の難問に、ホイーラーの提唱した「遅延選択実験」と呼ばれるものがあります。これは、光線をハーフミラーで二つに分岐し、これをそれぞれ鏡で反射させて交差させ、その先に光子を検出するセンサーを置きます。一つの光子が入射するとき、交差点に何もおかない場合、50%の確率でいずれかのセンサーが光子を検出します。この場合、いずれのセンサーが検出したかで、ハーフミラーで反射したか反射せずに透過したかがわかります。一方、交差点に干渉器を置いた場合、双方の経路を通過した光線が干渉いたします。

この実験装置において、光子がいずれか一方の経路を通るのか、双方の経路を通るのかは、交差点に干渉器を置くか否かによって決まるのですが、さて、この経路が非常に長い場合どうなるか、ということが問題です。なにぶん光の速度は有限ですので、光がハーフミラーを通過した後に、干渉器を置くかどうか決めることもできるわけで、光がハーフミラーを通過する時点では、どちらかのパスを通るか、双方のパスを通るかを決めることができないのですね。

この問題は、光がどちらのパスを通過したか知り得ない時点では光のパスについて語り得ない、と考えれば合理的に解釈できるでしょう。もう少し正確に述べるなら、光は双方のパス上を波動関数ψとして通過しており、センサーが光子を検出した瞬間に、光子がいずれのパスを通過したかが決定される、というわけですね。

人は知りえないことを語り得ない」という原理は、少なくとも事実を述べようとする以上、当然受け入れるべきであると私は思います。しかし、量子力学の観測問題に関しては、多くの物理学者が知りえないことを語りたがっているように、私には思われます。

そもそも「観測しない」という前提では、光子がどちらの経路を通ったか、人は知りえず、これを語ろうと考えるのが間違いの元なのですね。もちろん、光子のパスを知り得ない状況下でも、確率的には知り得るわけで、その確率を与えるのが波動方程式、というわけです。

日常的な生活の場では、「人は知りえないことを語り得ない」という原理を、たいていの人がよく理解しているように思われます。

たとえば、先に述べたカードの例で、よくシャッフルされたカードの山の一番上のカードは、すでに事態が確定しているにもかかわらず、それがなんであるかを人は知りえません。このような状況に対して、ふつうの人々は、そのカードがなんであるかを確率的に理解しており、そのような理解のあり方に何の疑問も感じておりません。

これを、「一番上のカードは実は52種類のカードが重なりあった状態なのだ」、とか、「52の世界に分裂した」、などと言い出す人がいれば、この人はちょっとおかしいのではないか、と考えるのが常人のセンスというものでしょう。

もちろん、このような状況下でも、一番上のカードが何であるか人が知り得ないにもかかわらず、それが何であるかは確定しております。そしてそれはカードを開いたとき、その場の人々が知ることになるのですね。

で、カードを開く前であってもそのカードが何であるかが確定している、と言える根拠は、真実は時が経過しても不変である、というもう一つの原則によります。明日の真実は、今日も変わらぬ真実であるはずで、ただそれが何であるのか人が知り得ないだけである、というわけです。

それを「知り得る」と考えるのは、物理学者の多くが、神の視座から世界を理解しようとするからなのですが、そんなことは、神ならぬ自然科学者には所詮無理な願いである、というしかありません。

人は知りえることしか語り得ない」この原則は、あらゆる学問においても、常に忘れてはならない大原則である、と私は考えております。


あ、カードを切るのは量子力学とは関係ないではないか、などと言い出す物理学者がいるかもしれませんが、量子力学的カードシャッフル装置、などというものを考えることもできますから、この異議は却下、です。

この装置、たとえば、カードをぐるぐると回しておいて、放射性物質から出る放射線がガイガーカウンターを作動させたときに、特定の位置のカードを取り出して山に積み上げていく、なんてことでもできるのですね。

さて、このような装置を用いてカードをシャッフルしたときと、人間がシャッフルしたときで、果たして状況にどれほどの違いがあるというものでしょうか?

そもそもシュレディンガーが猫の実験を提唱したとき、先生、このあたりのことまできっちり読んでいたのではなかろうか、と私は想像しております。こんな問題に対してさっさと正解の出せない現状を見て、シュレディンガー先生、草葉の陰で苦笑しておられるのではないでしょうか。