シュレディンガーの「精神と物質」を読み返しております。この本、以前ご紹介したときは、あっさりと切り捨ててしまったのですが、その内容はなかなかに深みのあるものを含んでおります。
まあ、シュレディンガーのたどり着きました境地、ウパニシャッド哲学(すべては一つであるとするスピノザの神と類似したヒンズー教の教え)、には少々戸惑いを覚えるのですが、シュレディンガーの抱いております基本的な疑問は、良く理解できるものです。
この疑問とは、自然科学は、その内容から人間精神を取り除いてしまったけど、自然科学を作り上げているのは、実は人間の感覚に基づいているのだ、という事実ですね。実際問題として、望遠鏡や顕微鏡を覗くのは人間の目ですし、人間が理論を考えている。でもその理論の中には、人間の精神は含まれていない、というところに、現代の自然科学の問題がありそうだ、という疑問であるわけです。
もちろんシュレディンガーは、「ネコ」の問題を出された方ですから、量子力学における観測問題を意識されていたものと思います。シュレディンガー自身が作り上げた波動関数は、観測することによって収束する。ここには、自然科学の領域から取り除かれたはずの、人間精神が、なぜか舞い戻っているのですね。本来であるなら、この時点で、自然科学という論理の枠組みに、変更を加えるべきところでした。
まあ、この問題だけでしたら、「人は知りえないことを語りえない」という原則を、光速不変の原理と同じような、物理学の基本原理としていただきさえすれば解決する問題である、と私は考えているのですが、似たような問題は他にもあります。
これは、最近の脳科学の領域で生じている問題でして、脳科学の進歩は、人間の脳内で生じている現象、すなわち人間の精神的活動は、全てニューロンの化学的作用に帰着できる、との結論を出す一歩手前まで来ております。少なくとも、魂、と呼ばれますような、ふわふわとしてとらえどころのない物体が、脳内にあって、ニューロンに何らかの作用を及ぼしている、などという現象は未だ発見されておりません。
と、なりますと、脳科学を研究する、という行為自体、単なる自然現象に過ぎない、ということになるのですね。これは、自然現象であります人間の精神が自分自身を自然現象である、と考えている、実に奇妙な状況である、といわざるを得ません。なにぶん、自然現象といいますものは、人間精神とは無関係に生じております、因果の連鎖、ですからね。
このような状況を打破するには、自然科学は論理空間の一つであり、人間にとって重要なのは、自然科学という論理空間だけではない、という考え方をしっかりと持つことが大事なのでしょう。
なにぶん、マンガは、自然科学的には、インクとセルロースである、としか言いようがないのですが、マンガにはインクやセルロースを越えた価値がある、ということを私は実感しているわけでして、人間精神が実は自然現象に過ぎなかったところで、そこに物理的世界を超えた価値を見出したとしても、何の不思議もないのですね。
これをアリストテレス風にいいますと、自然科学が扱っているのは質料因だけであり、形相因はまた別の世界にある、ということもできるでしょう。ブロンズ像があったとき、自然科学はその素材でありますブロンズについては多くのことを語り得ますが、その像の形のこと、特にその形が意味することとなりますと、何一つ語ることはできないのですね。
で、世間の人がブロンズ像に関心を持つのは、その素材であることはめったになく、たいていの場合は、その形である、といえるでしょう。自然科学の世界だけが全て、などということは、全くあり得ない話です。
脳科学の導きましたもう一つの事実は、人はありのままに外界を見ているのではない、という事実でして、感覚器官が外界の刺激を受けましてから人が外界の事物を認識するまでに、何段階ものニューラルネットワークの分析を通過しており、しかもその情報処理のほとんどを、人はなんら意識していない、という事実があるのですね。
と、なりますと、自然科学が前提としておりました自然主義的態度、つまりは、眼前の事物はそのように存在するのだ、という基本認識も少々怪しくなります。人間が把握していると感じている外界の事物は、実は人間精神が生み出した概念に過ぎず、外界の事物の真の姿を人は永久に知ることはできない、というカントの主張が、どうやら正解である、ということになります。
そうなりますと、外界の事物という、確固たる実在は、実のところ、どうでも良い存在ということになりまして、人が認識する外界に対する概念こそ、人間にとって最も大事な実在なのである、ということも言えそうです。
そこで、科学的論理空間の他に、種々の論理空間を措定いたしますと、なるほど、世界の真の姿も見えてこよう、というものです。まあ、このあたりのことは、夏休みにでも、少々深く考えてみることといたしましょう。
この議論は、「主観と客観:情報システムの中の世界」にまとめました。