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デヴィドソン「主観的、間主観的、客観的」を読む

昨日買い求めた本の一冊、ドナルド・デヴィドソンの「主観的、間主観的、客観的」をぱらぱらと読んでおります。

1. 同書について

この方、米国哲学界の大御所でして、大量の論文を書かれている方です。同書の内容は、科学哲学の分野をカバーするもので、昨今の私の関心にマッチしたものです。ただ、あまり一般的な読者を対象としたものではなく、そう、すらすらと読める本ではありません。この分野に相当な興味のある方以外にはお奨めできない、ということだけは、あらかじめお断りしておきます。

さて、この本はデヴィドソンの14篇の論文を集めたもので、その概要をデヴィドソン自身が序論の部分で纏めて紹介している、大変に読者に親切な本です。この序論におきますデヴィドソンご自身のお奨めに従い、第14論文から読むことといたしましょう。

2. 三種類の知識

第14論文は「三種類の知識」と題するもので、「自分の心の内部に関わる知識」、「世界に関わる知識」、「他人の心の内部に関わる知識」という3つの種類の経験的知識について述べたものです。この3種類の知識、もちろん、「主観的知識」、「客観的知識」、「間主観的知識」に対応するであろうことは、書題を思い起こせば明らかでしょう。

この3種類の知識に関するデヴィドソンの主張は、これらは三脚の脚のようなもので、どれが優先するというものでもない、とするものです。これは、たとえばフッサールが、主観を定立し、その上で他者に関して議論する、というアプローチとは異なるもので、デヴィドソンはそのような考え方に批判的です。

デヴィドソンの批判は、なるほど、納得できるものでして、実は、主観について考える際にも、他者を通して得た知識の上で議論しております。これは、デカルトの「我おもう故に我あり」という言葉に、私も疑問を感じたことでして、実はそのような言葉を口にし、あるいは書物に書くとき、すでに他者の存在が前提となっているのですね。

ただ、デヴィドソンの考え方には、私は、「どうも軽い」という印象を受けます。確かにおっしゃられていることはもっともなのですが、だから何だ、という思いをもってしまうのですね。

もちろん、学問に、世の事物を並べて論じる、というアプローチがあることは私も理解しますし、デヴィドソンのような重鎮といたしましては、よろず万端、隅々にまで行き届いた目配りが必要である、ということも理解できるのですね。しかし、どうもメリハリがありません。

3. デカルトの信念

たとえば、存在の基底に「信念」をおいてしまっているのですが、これでは、デカルトの明晰判明に真実と認識するものを真実と認める態度と同じです。このような考え方に対するシュヴェーグラーの批判を以前のブログにご紹介しましたが、このような考え方を認めてしまうと、せっかくのデカルトの懐疑論はぶち壊しとなり、何が真実で、何が真実でないかは、あやふやな個人の感覚に帰着されてしまうのですね。

また、この3種類の知識を並立的に認めてしまいますと、客観を間主観性に帰着させたフッサールの慧眼も無に帰してしまいます。

まあ、論文集の一つの論文だけを読んで批判するのは、少々軽率の誹り(そしり)を免れないでしょう。とはいえ、この論文集、全てをきちんと読み込むには、かなりの時間がかかります。そこで、ここでは、デヴィドソンの主張に対しての批判は行わなず、私の印象が上記のようなものであったことを述べるにとどめ、本日のところは、この3つの知識に関する私の考えを述べることにいたしたいと思います。

4. カントの客観

まず、客観とは何か、という点について、よく考える必要があります。

カントは、以前このブログでご紹介いたしましたように、「プロレゴーメナ」第1部注2で、次のように述べています。

私が言っているのは、物は我々の外にある感官の対象としてわれわれに与えられるが、ただし、物がそれ自体としてどんなものかについてわれわれは何も知らず、ただその現象、すなわち物がわれわれの感覚を触発するときにわれわれのうちに引き起こす表象を知るだけである、ということである。

だから、私はもちろん、われわれの外に物体があること、つまり物があることを認める。……この表象に物体という名をつける。したがってこの物体という言葉は、われわれには知られないが、それにもかかわらず現実にある対象の現象を意味するだけである。人はこれを観念論と名づけることができるだろうか。いや、まさしく観念論の反対である。

このカントの考え方は非常な慧眼でして、そもそも概念(カントの例では「物体」という概念)は、人間の精神の内部に存在するものであって、われわれが対峙している外界にあるわけではありません。外界に存在するものは、人が特定の概念を見出す原因であって、それに対して人はその概念そのものが存在するという印象を受けます。

例をあげて説明しますと、人はリンゴを前にして、「眼前にリンゴがある」と考えるのですが、人間とは無縁にそこに存在するものは、「人がリンゴという概念を見出す原因」である、というわけですね。

私は、そうであることを納得した上であるなら、「そこにリンゴが存在する」と考えることは何ら問題がないものと考えています。なにぶん、リンゴという概念がそこに見出されるなら、そこにリンゴがあるとすることは不自然な話ではありませんから。

ただ、このとき、そのリンゴは人間と無縁に存在しているのではなく、人間がそれをみて、そこのリンゴという概念を見出しているから、はじめて、そこにリンゴが存在する、といえる、ということを忘れてはいけません。

つまり、人間の存在と無縁に存在しているのは、リンゴという概念を人が見出す原因であって、それ自体は名もなく区別もないものである、ということですね。リンゴという概念は、人がそれを知覚し、認識して、はじめて生じるものである、というわけです。

5. フッサールの客観

フッサールは、「客観」を間主観性の上に定義しなおしました。他者と共有された主観こそが客観である、というのですね。これを私流に書き直しますと、リンゴが客観的に存在するということは、3つの条件が揃ってはじめていえることになります。第一に、他者も同じリンゴを見ていること、第二に、他者も自分と似通った感覚を持っていること、第三に、リンゴという概念が自分と他者の間で共有されている、という3点です。

もちろん、人が客観的存在を確信するとき、常に他者の存在が必要とされるわけではありません。その人のこれまでの経験から、もし傍らに人がおればそう言うであろう、という仮説に基づき客観的存在を確信している、というのがほとんどの場合でしょう。

いずれにせよ、このようなことを考えますとき、主観、客観、間主観を三脚の脚のごとくに並列させる、という考え方には少々違和感を感じずにはおられなかった、というわけなのですね。さて、この本、どういたしましょうか、、、

6. 余談:量子力学と物理的実在

さて、本日はいろいろなものを読んでおります。昨日のブログで顛末をご紹介いたしました「科学哲学」誌の1994年の特集号量子力学と物理的実在を読んだりもしたのですね。

ただこの内容、これは、量子力学的アプローチそのものでして、「科学哲学」的アプローチがあまりないように感じられます。このような記述でしたら、以前のこのブログでご紹介いたしました「数理科学」のアプローチと何ら変わるところがありません。

まあ、こちらの別冊は2006年の出版ですから、少なくとも観測問題に関しては、この12年を経過して、あまり変化してはいない、ということが読み取れるという意味はあるのですが、、、

と、いうわけで、心配されました私のアイデアが過去に否定されていた、という恐れはかなり減少したように思われます。きちんとした形での報告を、どこかにすべきではなかろうか、などという思いがむくむくと沸き起こってまいりました昨日・今日ではありました。